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◉震災発コラム

御蔵で迎えた、15年目の朝

神戸市長田区・御蔵北公園 ◉ 2010年1月17日午前5時46分
ろうそく法要 午前の部

text by kin

2010.1.27  up
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2010年1月17日 長田区御蔵北公園 ろうそく慰霊法要 午前6時頃
早朝の"ろうそく慰霊法要" (長田区・御蔵北公園 2010年1月17日) [クリックで拡大]

帰る

御蔵を訪れたのは久しぶりだったが、それほど大きな懐かしさを感じることはなかった。街の風景にそれほど大きな変化がなかったこともあるかもしれない。区画整理(御菅西地区震災復興土地区画整理事業)が一段落したこともあり、道路や公園が整備されて復興住宅や自治会館、本建築の住宅が建つようになったこの数年の風景は、その変化のスピードもゆるやかになっていた。北町の交差点の角にあったゴルフ練習場がスーパーマーケットになっていたことは小さな驚きだったが、震災当時にボランティアのテント村があった思い出深い新湊川公園をつぶして続いていた阪神高速道路の地下工事は、7、8年は続いているだろうと思われるのに、依然として終わる気配すら見せていなかった。

この御蔵の地は、私にとっての神戸でのホームグラウンドである。それはただ最初に震災ボランティアをした1995年2月に、たまたまこの地で活動を始めたからという恣意的な理由に過ぎないのだが。この間、この地で始業した「すたあと長田」「まち・コミュニケーション(まち・コミ)」という2つの組織に関わってきたが、それも私が活動を始めたこの地にこれら団体が生まれたから、とも言い換えることができるかもしれない。もちろんそう意識した訳ではないのでそれは自分でも解らないが、ただそうした間にこの地の復興を見守っていこうという想いを抱いたのだけは自覚している。

出会う

1月16日の前夜、御蔵通5丁目の共同住宅「みくら5」1階のまち・コミの事務所には、懐かしい人たち、そして新しく顔を合わせた人が集まってきた。明けた17日早朝に行われる「ろうそく法要」に参加するためだ。僧侶の2名もすでに駆けつけている。このお二人共、この地にボランティア村のプレハブがあったころにSVAで長く活動していた元ボランティアである。王将のテイクアウトで夕食を囲み、それぞれの地元の話や懐かしい話などに花を咲かせた。

僧侶の一人は東京・八王子の寺からやってきた藤井師である。この地での1.17早朝の法要は、元々はここにいくつものボランティアのプレハブが建っていた当時に彼を中心にして始められたことで、最初はボランティア達による静かな祈りだった。その更地がやがて公園となり、一角には鎮魂のモニュメントが建立される。そして朝の祈りもたくさんのろうそくを灯す法要となり、多くの地域住民や僧侶も参加する大きなものとなった。以来、藤井師はこの法要の導師を務めているのだ。

もう一人は秋田、白神山地の麓の町から参じた新川師。町の中心に位置する寺の住職を務めているが、仲間と自殺防止の市民活動などにも関わっている。真冬の現在は積雪も多い自然の厳しい場所であり、この日も雪による遅延の出た飛行機を乗り継ぎ到着も夜遅くになっていた。それでも師は、まるで義務であるかのように手弁当で遙々今年も駆けつける。そして事務所の前にあるお好み焼き屋「ぽてと」のそばめしとすじお好みを差し入れてくれた。

初めて会ったのは福井県鯖江市から来た田中さんで、大阪在住のまち・コミスタッフである浮田さんの友人だった。彼は新聞記者だが、地元の市民活動センターでNPOのサポート活動も担っている。休暇を利用して来たという今回は、記者という好奇心とNPOの一員としての被災地のNPO活動への興味、そして昨年の福井豪雨の被災地の立場としての関心など様々なことがきっかけにあったという。

田中さんには、鯖江という地方都市が眼鏡の街として試行錯誤しながら盛り上がる様子や、マスメディアの話などいろいろな興味深い話を訊くことができた。同時に被災後に御蔵がたどってきた様々な話を何も知らなかった彼に話すという過程は、自分にとっても改めて振り返るきっかけとなった。

話し込んで夜も更けてくると、他のみんなは次々と宿泊場所や寝床に入っていく。徹夜をするという田中さんを残し、私は夜中も営業する銭湯へ行くことにした。これまで周辺の銭湯は散々巡ってきたが、最近は朝までやってる所が少なくなっており、結局上沢の第一平和温泉まで徘徊する羽目になる。結果、戻ってくるころには僧侶の面々も準備のために数時間の眠りから覚めていた。住民有志の方も事務所の台所に来て、法要後の接待の準備を始めている。こうして寝る間もなく15年目の朝を迎えた。

集う

ろうそく法要は今年からは、まち・コミではなく御蔵5・6・7丁目自治会の主催となった。これまでまち・コミが活動支援をしてきた御蔵通5・6丁目町づくり協議会が、数年前に解散を余儀なくされたことがここにも尾を引いている。主催は変わったが犠牲者を弔う想いは変わらず、共に地域住民として祈りを捧げる。

真っ暗な公園では、自治会住民の方々がペットボトルに入ったろうそくを慰霊モニュメントの周りに並べ、準備を始めていた。碑の正面にこの数年の恒例でもあるまち・コミが預かっていた、兵庫県丹波市立大路小学校児童から届けられたという手作りろうそく50本ほどをお供えする。

午前5時半、真っ暗闇の公園に薪の火が焚かれた。碑を囲み、数百本もの鎮魂の焔が煌めいている。この場に集っていた数百名もの人々は遺族や地域住民の方々が中心であるが、御蔵に限らず周辺の町内の住民の方も来ているようだ。長田でもこのような早朝に行われる追悼の場が少なくなってきたこともあるのだろうか。ここから少し離れた東尻池在住の和田さんともここで再会した。この夜に新長田駅前で行われる灯りイベントの実行委員長を毎年務められ、私も震災の年以来お世話になっている。

また復興後に街に戻ることを断念した元住民も駆けつけていた。当時、私たちボランティアがお世話になっていた木村さんも、移住した西神の自宅から戻ってきていた。そして1999年に建った復興住宅に入居した新住民の方々もいる。復興住宅はもともとこの地で被災した人のための受け皿住宅として計画されたものだが、計画が長引いた結果、当初の役割を果たせるものとはならなかった。そのため新規公営住宅として入居してきた非被災住民も少なくない。そうした方々にとっては、この地域の歩んできた被災の歴史に接する貴重な場でもある。

またこれまでここで活動してきた私のようなボランティアの姿も見える。ここは神戸でも珍しい、幾つものボランティア団体や非営利組織が集結して活動していた場所であった。その先駆けとなったのは、1995年2月にこの地に本部プレハブを建て活動したピースボートだった。当時その中心メンバーといて動いていた同団体の専従スタッフである山本氏の姿が伺えたことは、当時の経緯を知る人たちも懐かしくも小さく驚いた。15年目であることを忘れていなかったのである。当時、彼の指揮の下の下の下のあたりで活動していた者としても嬉しい出会いだった。

またそうしたボランティア団体の活動に関わってきた人たち、またまち・コミを通じてまちづくりを支援してきた建築、都市計画、防災、災害、市民活動など様々な専門家の人たちも、関西一円のみならず全国から集っている。関西学院大学の室崎教授は、今年も学生を多く引き連れてやって来た。早稲田大学の災害社会学者浦野教授も、滞在していた真野地区から駆けつけている。また震災当時、日本銀行神戸支店長として被災地の金融経済を監督していた遠藤氏も"震友"として関東から駆けつけていた。

この御蔵の追悼の場には、このように地域の場としては他の地域では見られないほど多様な立場の多くの方々が参加していた。それはまさに、この地においての多様な活動歴を象徴するようでもある。それぞれ想いは違えど、「この地」で追悼したいという気持ちは同じなのだ。

祈る

導師入道。藤井師を導師に、同じく新川師、そして初代まち・コミ代表で僧籍を取り神奈川県箱根湯本で住職を務める小野師など8名もの僧侶が全国から集まっていた。宗派は異なるが一堂に会し、無宗派仏式で執り行われる。

ぴんと張り詰めた冷たい空気の中、じっとしていると寒さで震えが来る。マイクを通した電話の時報案内に耳を傾け、その刻を待つ。そして午前5時46分、黙祷。

続いて慰霊モニュメントを囲んだ僧侶の読経が始まった。僧侶は順番を入れ替え、慰霊碑の周囲を回りながら唱えていく。その後、藤井師によってこの地で亡くなった全ての霊の名前が一名一名丁寧に読み上げていく中、会葬者が2人ずつ並び、焼香をしていった。

30分ほど続いた焼香の後、無事役目を果たした藤井師から簡単な法話が続いた。こうして朝の法要が終了し人々が家路につく6時半ころは、依然として日の出まで30分以上も待たねばならないという真っ暗であった。この空の明るさと寒さだけは、我々も15年前を疑似体験できる。

光景

しかしながらこの15年目の朝に最も痛感したのは、御蔵の住民の間にできてしまった溝の深さであった。これまで報道や人伝えに聞いていたそれは、この数年で癒えることなくかえってその深さを増していたようにも感じるものだった。この場で特に何があったわけではない。しかしそこに漂っていた"空気感"、それは私のように外からやってきた者にも一瞬で伝わってくるものだった。数年前のどちらの姿をも知っているだけに、外の人間はただ見守ることしかできない。

式が終わった頃、ある印象的な光景を見る。つい数年前まではこの時間の公園の端には、取材する新聞記者を待つ黒塗りのハイヤーが何台も列をなしていたのだが、今年はそれも数台程度だった。震災15年にしてマスメディアの関心は、もはや風化したかのようだった。

しかしそうしたハイヤーの代わりに、ワンボックスカーなどの数台の車が止められていたのに気がついた。式も終了し、何組もの家族がそれぞれの車に乗って帰るところだった。おそらく従前の住民だったが震災でこの街を離れざる得なかった方や遠方に住む遺族の方々なのだろう。「この時間にこの場所で」祈らなければならない理由のある人たちなのだ。

住民間の溝と従前居住者や遺族の想い。ハイヤーで来ていたような一見さんの取材記者には見えていない状況がそこにあった。なぜこの場には立場の違う多くの人たちが集っていたのか。その人たちと同じように、私はこれからもここに戻ってくるだろう。合掌。

[了]

大震災以後
室崎 益輝 「科学」編集部
岩波書店
おすすめ度の平均: 5.0
5 阪神淡路大震災を過去のものとしてはいけないことを伝える本

#文中に登場する名称・データ等は、初出当時の情況に基づいています。

◉データ
ろうそく法要 午前の部
開催日:2010年1月17日午前5時46分
場所:神戸市長田区御蔵通5丁目・御蔵北公園
主催:御蔵5・6・7丁目自治会

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Text & Photos kin

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早朝の「1.17ろうそく法要」(神戸市長田区御蔵通・御蔵北公園 2010年1月17日)
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