◉震災発レポート
島原を往く ❶
実物の迫力に圧倒
長崎県南島原市 ◉ 2009年1月20日
◎ 雲仙普賢岳噴火災害
旧大野木場小学校/大野木場砂防みらい館
text by kin
2011.1 up
1990年、雲仙普賢岳が198年ぶりに噴火した
1991年に島原で何が起こったのか、はっきり覚えている人は少なくなっているかもしれない。1990年末、長崎県島原半島にある雲仙普賢岳は198年ぶりとなる噴火活動を開始した。そして翌1991年6月には最大となる大火砕流が発生し、死者43名もの犠牲者を出す。その後も幾度となく発生した大火砕流や土石流は、多くの家屋や畑をのみ込んだ。避難生活も長期にのぼり、仮設住宅が解消したのは1995年末だった。
震災後に神戸で出会ったボランティア仲間や研究者の方でも、島原に行った人とは何人も会った。また新聞記者になった神戸出身のボランティアの仲間は、進んで島原勤務を望み赴任して行った。三宅島島民が避難していた当時、その集会に島原の被災者が訪れて経験を伝えていた。そうしたこともあり、一度は島原に行ってみたいと考えていた。
荒涼とした麓で、迷いに迷う1時間
島原駅からバスに乗った。山を越えて雲仙方面まで向かう路線である。しばらく走ると周りには農地が広がり、右側の車窓には普賢岳が映り込んできた。バス車内の停留所案内放送では、噴火した普賢岳の紹介が流される。ゆるやかに坂を登り標高が高くなるにつれ、風景が荒涼としてきた。水無川の大きな橋梁を渡った所で、バスを降りた。
バス停から少し戻り、先ほどの橋梁まで行ってみる。水の流れていない枯山水のような川の先に普賢岳がそびえていた。噴火災害時に、土石流が何度も発生した場所である。その土石流の流れをコントロールするための災害対策工事が現在でも続いている。石ころだらけの川の両脇には、土石流を導く巨大なコンクリートの塊が並んでいた。
大野木場(おおのこば)という場所を目指していたのだが、このバス停の周囲はほとんが農地で、看板なども特に見あたらない。チラシにあった地図はデフォルメされた簡易なものだった。よく見るとバス走った道の先に道路標識が見えたので、とりあえずその方向に向かってみた。その標識の地点からとにかく山のほうに続く道を行く。しかし歩いている人影もなく、結局は迷いに迷って1時間近くうろつく羽目となった。
結局のところ私が最初に見た道路標識は、車用だったのだ。最短ルートだと大型バスが通れないので、車用にこうして標識を設置したようなのだ。しかしそのバス停からの近道には、何の案内もなかったのである。
それは校庭からも伝わってくる。
一つの廃校が目に入ってきた。1991年9月15日、住民が避難して無人となっていた地域一帯を最大規模の火砕流が襲う。数百度もの火山ガスの熱風が時速100キロものスピードで流れ下り、呑み込まれた大野木場小学校は焼失した。その被災校舎をそのままの状態で、1999年から災害遺構として保存している。
まず校庭を歩いた。「砂場跡」と記された杭の刺さった場所は、四角い縁の木枠が真っ黒焦げになっている。まるでバーナーで焦げ目を付けたかのようだ。熱風が地までを這っていったのである。
隣には、卒業生による記念植樹だったという大きなイチョウの木が生えている。プレードの説明によると、熱風よって焼けてしまったと思われていたが、見事に耐えて甦ったとある。近くには被災直後の写真パネルもあったが、その中の灰色になった木を見ても、あれが甦ったとはとても信じがたい。今は冬なので葉も付いていないが、青々とした葉をいっぱいに付けた復活後の写真もある。よくお寺の境内にイチョウの木が植えられているのは、燃えにくい木の特性を鑑みて防火効果を狙ったためだと言われるが、校舎が丸焦げになるほどの火砕流にも耐えたことは驚きだ。その言い伝えも本当であったのだと証明されたのだ。
傍らには、錆びつつあるブランコやジャングルジムなどの遊具も残っていた。被災したジャングルジムを見ていると、黒澤明監督作品『八月の狂詩曲』(1991年)に登場した長崎の原爆投下によって捻じ曲がったジャングルジムをも想起させる。もっともあれはその為に美術スタッフが作った"フィクション"であったのだが。こうしたブランコやジャングルジム自体が、モニュメントの価値持ち、被災を後世に伝える役目を帯びていると実感する。
実物の迫力にただただ圧倒される。
校舎に近づいてみると、窓は全て失われ、校舎内部の机や椅子などの可燃物は全て焼失していた。枠や配管などの鉄の部分だけが剥き出しになり錆び付いている。教室の床は全て燃え落ちて失われたようで、デコボコしたコンクリート基礎だけが剥き出しだ。学校の床下ってこんな形になっていたのかと思う。
別の場所にあったパネルの説明には、校舎全体の劣化防止のためにモルタル剥離防止や屋上の防水工事などが行われたという。また2階の教室などいくつかは、内部も焼けず道具などまで残っていたそうだ。実物の迫力に言葉も出ず、ただただ圧倒された。
100の言葉で語られるよりもこの被災校舎を目の前にして、その空気と触れるだけで火砕流の凄さを実感できた。この存在感は、広島の原爆ドームの如くだ。いまだ背後にそびえる普賢岳との対比が凄く、この校舎を前景にみると活動の終熄した山が今にも噴火しそうで怖くなってくる。
本質は砂防監視所
続いて学校の向かい側にある「深江埋蔵文化財・噴火災害資料館」に行ってみる。この辺りは旧深江町にあたり、3年前の合併で南島原市となったところだ。その南島原市の噴火関連資料館なのだが、残念なことに休館日であった。
再び向かいに戻り、学校に隣接された「大野木場砂防みらい館」に入った。入場無料のこの施設は、正式名称を「国土交通省雲仙復興事務所大野木場砂防監視所」という。現在も続く砂防関連工事の監視所やその避難所、緊急時の無人化施工機械の操作所、そして見学ができる広報の場所として利用されている。
1Fと3Fに見学者用のパネル展示や資料室、展望台が設置されていた。正直、パネル展示の内容はたいしたこともなく、この展示スペースも無駄だとも思ったが、ここは一応避難スペースということで確保されている空間であり、その有効活用対策としてのパネル展示なのだそうだ。小さい小部屋には資料室があり、閲覧や持ち帰られる小冊子などが置かれている。いくつかの興味深い資料に読みふけった。
上階の展望スペースに上がった。目の前に水無川があり、復興関連工事が行われる様子が伺える。ダンプカーが絶えず行き来する。それを見ているとこうした見学スペースはあくまでも観光サービス的なもので、「砂防監視所」という復興工事が本来業務であることを認識させられる。噴火の収まった今日では、火砕流の心配よりは数年に何度かの割合で発生が続く水無川の土石流対策の比重が大きいようだ。浚渫を行い貯まった土砂を取り除かないと、ふたたび堰を越えて溢れてしまうのだ。
平成新山フィールドミュージアムとは?
当初、被災した大野木場小学校を目指して来たのだが、その真横には「砂防みらい館」が、そして休館はしていたがその目の前には南島原の「噴火災害資料館」があることは、ここに来て初めて知った。
駐車場には、大きな観光地図が設置されている。それは「平成新山フィールドミュージアム総合案内」というタイトルの大きな航空写真で、この中には「噴火災害資料館」的なものは更にほかにも地図の至る所に点在していた。こんなにあるのに、なぜガイド本や駅の観光用パンフレット類には掲載されず、またこうした「フィールドミュージアム総合案内」のフライヤーなどもないのだろうか。次に「雲仙岳災害記念館」に行こうと思っていたのだが、これを見て途中の道の駅に向かうことにした。
[続く]
#文中に登場する名称・データ等は、初出当時の情況に基づいています。
◉データ
普賢岳平成大噴火災害◊概略
1990年11月17日 水蒸気爆発(前回1792年噴火)
1991年5月 最初の土石流
1991年6月3日 大火砕流で43名の人的被害
1991年9月15日 火砕流で大野木場小学校焼失
1995年2月 溶岩噴出が停止
1996年5月 最後の火砕流
1996年6月3日 終息宣言
火砕流/土石流◊概略
火砕流:約9400回発生(3回の大火砕流)
土石流:約140回発生(およそ1700棟が土石流被害)
- 『1990年-1995年 雲仙普賢岳噴火災害概要』国土交通省九州地方整備局雲仙復興事務所調査課(2007年11月)
- 『雲仙・普賢岳 噴火災害を体験して 被災者からの報告』特定非営利活動法人島原普賢会(2000年8月)
- 『大火砕流を越えて - 普賢岳が残した十年』毎日新聞西部本社編,出島文庫(2002年6月)
- 『大災害!』鎌田慧,岩波書店(1995年4月)
- 島原市
- 火山とともに - 長崎県島原市
- 南島原市
- 国土交通省 雲仙復興事務所 大野木場砂防監視所(愛称:大野木場砂防みらい館)
- 国土交通省 九州地方整備局 雲仙復興事務所
- 国立大学法人九州大学 大学院理学研究院 附属地震火山観測研究センター(島原観測所)
- インターネット博物館 雲仙普賢岳の噴火とその背景 - 九州大学大学院理学研究院
- 道の駅 みずなし本陣
- 島原復興アリーナ
- 雲仙岳災害記念館
- 日本ジオパークネットワーク
- 島原半島ジオパーク
- 雲仙・普賢岳噴火災害〜復興の足取りと災害教訓 - 長崎県島原市:PDFファイルリンク