阪神・淡路大震災で失われたモノ、残されたモノ、生まれたモノ…そんな記憶を記録します。

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青池憲司コラム

ことしもKOBEから始る(前編)

宝塚、大阪、神戸 ◉ 2005年1月14日〜16日

text by 青池憲司

2005.1.27  up
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不覚をとった。

目が覚めたのは午前6時15分、阪神大震災から10年がすぎた2005年1月17日のことである。ヤキがまわったな、と思いながら表へ出る。雨が降っている。未明のこの時刻に雨が降っているのは、この10年で初めてである。神戸市長田区野田北部地区大国公園での5時46分の「黙祷」の儀はすでに終っていた。早朝の慰霊祭には、撮影中はもとより、キャメラを持たない毎年の1・17にも欠席したことはいちどもなかった。前夜、どんなに深酒しても5時15分には目覚めていた。それが、なんと、10周年のこの朝に……気が緩んだのである。(酒の呑みかたが足りなかったのだろう、との声もあったが)。口惜しいね。このようにして、わたしの、阪神大震災後11年目は始った。以下、ことしの1・17周辺の出来事を日録風に記す。

14日(金)  NHK『生活ほっとモーニング』出演後、神戸へ。夕刻、野田北部まちづくり協議会の事務所に入る。佐藤滋さん(都市計画家で早大教授)と真野洋介さん(東工大助教授)、塚原成幸さん(道化師で元・長野大学ボランティアリーダー)、八甫谷邦明さん(『季刊まちづくり』編集長)らがいる。前者 3人は野田北部・鷹取の震災復興まちづくりに尽力し、いまも関りつづけている。浅山三郎さん(野田北部まちづくり協議会会長)をはじめとするメンバーと、震災以前のまちの様子や地震後の10年を振り返る。この地区には明治の先人が残した「開拓心地」ということばがある。「人の心を開き地域を拓く」、コミュニティづくりの方法論にほかならない。

15日(土)  宝塚へ。シネ・ピピアで『阪神大震災再生の日々を生きる』の上映初日(〜21日)。キャパシティ50だが老若男女の観客で満席はうれしい。終了後、支配人景山理さんの司会でトークをする。阪神大震災と復興まちづくりの初志は、いまも、被災者のなかで確実にいきている。と同時に、当時幼かった若者たちがそのプロセスを継承していこうとする初心が鮮明にみえる。そのことをつよく感じた。景山さんは大阪のシネ・ヌーヴォの支配人でもあり、旧い付き合いで、かつて、記憶のための連作『野田北部・鷹取の人びと』全14部(14時間38分)の一挙上映という快挙(暴挙)をしてくれた。そのマラソン上映に参加したという若い女性がきょうの観客にいた。謝と驚。

同日夜。「台湾—神戸震災被災地市民交流会」のパーティが、たかとりコミュニティセンター内のペーパードームで開かれた。これは、阪神大震災被災住民と台湾921大地震被災住民が、その体験と復興のプロセスを語り合おうという催しであり、今夜はその前夜祭。阪神の被災者が昨年の9・21(大地震5周年)に訪台し交流した。こんどは台湾の被災者が阪神にやってきた。わたしが以前からすすめてきた「インターコミュニティ」(国や政府を越えた住民同士の連帯)の具現化である。一行のなかに、『生命希望の贈り物』の監督・呉乙峰いて、再会。わたしが、2000年の「台湾国際ドキュメンタリー映画祭」に招かれて訪台したとき以来だから4年ぶりである。そのときは、呉乙峰やかれが主宰するドキュメンタリー映画制作集団「全景映像工作室」のスタッフといっしょに、「921大地震」の被災地をまわった。昨日のごとくにおもいだす。

さらに同日同夜。所も同じ長田区の御蔵地区へ出かけた。御蔵通5・6・7丁目自治会の集会所へ。この集会所は、兵庫県の日本海側の村にあった築100年超の古民家を移築したものである。囲炉裏のある大座敷に、壮(老にあらず)若男女の住民さん、ボランティア、専門家らが集り、すでに宴たけなわ、話が弾んでいる。御蔵5・6丁目まちづくり協議会会長の田中保三さんや住民さん、「まち・コミュニケーション」のスタッフにまじって、そのころボランティアできていた若者たち、専門家がいる。当時、日銀神戸支店長だった遠藤勝裕さん(まち・コミ顧問)がいる。「まちづくり教祖」を自他ともに認める宮西裕司さんがいる。早大教授の浦野正樹さん(まち・コミ運営委員)がいる。震災直後にここで日刊の「デイリーニーズ」(ニューズの誤植にあらず)を発行した、あらばきのおばちゃんがいる。おばちゃんは東京・大久保の仕事場から印刷機を運んできて、新湊川公園に置かれたトラックを印刷所にした。わたしは、この地区の復興過程はワンカットも撮影していないのだが、縁あって出入りさせてもらっている。その縁繋ぎの主がおばちゃんである。挙げていけばきりがない。いずれも震災後にこの地域で復興活動に携った人たちである。面々との歓談で震災10周年の前々夜は更けていった。

16日(日)  早起きして大阪へ。シネ・ヌーヴォでの『阪神大震災再生の日々を生きる』上映(15日〜21日)で舞台挨拶をする。とんぼ返りで神戸シーガルホールへ。先述した台湾と阪神の「被災地市民交流会」の「震災記録映像上映会」が開かれている。上映作品は、『阪神大震災再生の日々を生きる』と『生命希望の贈り物』。前者は災害からの「まちの再生の物語」、後者は「人と家族の再生の物語」である。映画の合間に青池憲司・呉乙峰の監督対談、上映後には『生命』出演者の舞台挨拶があって、という盛沢山なプログラムは午前10時から午後5時すぎまでの、観客にとってたいへんな上映会であった。われわれ野田北部を記録する会のスタッフ(千葉景房、村本勝、青池雄太)がひさしぶりに顔をそろえた。夜は、浅山三郎さん、小野義明さん、林博司さんら住民さんに、塚原道化師、スタッフ(+千葉夫人由美子さん)も混じって、鷹取商店街の鬼瓦(寿司と小料理)で呑む。さらに、藤本(お好み焼き)で呑む。震災10 周年の前夜はかく更けていった。

[続く]

時を超えて 阪神大震災10年
産経新聞「阪神大震災」取材班
産経新聞出版

◉初出誌
「阪神大震災ドキュメンタリーヴィデオコレクション─野田北部を記録する会WEBサイト」(http://nodahokubu.web.fc2.com/)サイト内
「連載コラム『わが忘れなば』第1回」2005年1月27日掲載を再録。
#文中に登場する名称・データ等は、初出当時の情況に基づいています。

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青池憲司

ドキュメンタリー映画監督。震災後、親交のあった長田区の野田北部・鷹取地区に入る。"野田北部を記録する会"を組織し5年間に渡りまちと住民の再生の日々を映像で記録。
「記憶のための連作『野田北部・鷹取の人びと』全14部」(1995年〜99年,山形国際ドキュメンタリー映画祭正式招待作品)を発表、国内外で上映。2002年「日本建築学会文化賞」受賞。

WEBサイト

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