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◉震災発レポート

三宅島は今……②
島民懇談会〜厳しい島の現状にため息

東京都港区立芝浦小学校 ◉ 2001年4月15日
第2回 三宅島島民ふれあい集会
〜がんばろう三宅島! 笑顔で帰れる日のために〜

text by kin

2001.6.1  up
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体育館では「島民懇談会」が開催された。三宅村役場からは島民の生活実態アンケートの報告も。 2001年4月15日
体育館では「島民懇談会」が開催された。(東京都港区立芝浦小学校・2001年4月15日) [クリックで拡大]

厳しい島の現状にため息が漏れる

体育館では「島民懇談会」が開催された。行政が村民に対して島と島民の現状を報告し、情報共有を計るのが目的である。都からは島の被害状況と復旧作業などについての説明があった。

目下、島民が強く望むのは「一時帰島」であるが、説明された島の現状は、大変厳しいものだった。都建設局によると、観測網の充実や泥流対策、水道・橋・道路の復旧工事を行っているが、雨が降るたびに火山灰の土石流によって破壊される状況だという。また有毒な火山ガスが排出され続けているため、脱硫設備の整った施設がないと滞在できないが、その設備も整ってはいない。工事関係者も島内では夜間滞在ができないため、近隣の神津島から往復3時間をかけて通っているのだという。作業員たちでさえこのような状況なので、一般島民の一時帰島については、まだまだ決して甘くない状況だということだった。

三宅村役場からは島民の生活実態アンケートの報告があった。およそ40%の人が、主な収入源が年金と答え、暮らし向きが苦しいと答えた人がおよそ77%にも及んだ。

会場の体育館にはぎっしりと人が詰めかけ、真剣に説明に耳を傾けていた。ビジュアル豊富なスライドを使ってのわかりやすい説明と裏腹に、その内容がとても厳しいものだっただけに、島民の間からは深いため息が漏れていた。

東京の"災害被災地"、さらに避難生活は続く

ふれあい集会の後、参加者のみなさんは伊豆諸島名産の野菜「あしたば」などのたくさんのお土産を抱えて帰路についた。神着木遣太鼓の力強い魂に見送られながら、行き先別にバスが順次出発していく。

最初に出発したバスに乗り込んだのは、最も遠く2時間ほども掛かる奥多摩にある秋川高校行きのバスだった。三宅島の小中高校生の子ども達の多くは、親と離れて秋川高校で寮生活を送っている。そのバスには小学生たちが乗っており、一人の男児が家族との別れ際、泣きじゃくりながらバスの窓から顔を出しているのが見えた。他の子たちの多くは陽気にはしゃいでいたので、かえって目に付いただけなのかもしれないが、私にはそれがただの別れではなく、三宅の前に立ちはだかっている困難な状況を象徴しているような光景に映った。

くさやの匂いに感嘆し、行政の報告にため息を漏らし、愉しい思い出を胸に、また別れていく。島民の前には依然として困難が続く。東京の"災害被災地"の現在がそこにあった。

広がってきた三宅の支援「神戸のことを役立てられたら」

三宅島島民への支援の輪は、確実に広がっている。

雄山の火山活動直後からのインターネットでの情報支援ボランティアは、その前の2000年3月に起こった北海道の有珠山噴火災害の被災者からの支援がきっかけで始まった。メーリングリストには有珠山被災者や支援者のほか、火山学者やマスコミ人、行政人、ボランティアらが集っただけではなく、島民有志も加わり自身の声を発信することを可能にした。MLやWEBによって地域を越えた動きや情報の共有化が促された。

多くの島民が公営住宅団地に避難した東京都北区や多摩地域では、地元の支援グループが生まれ、情報紙を発行したり、ボランティアの地元手芸家が講師を務める手芸会も行われている。またばらばらになっていた島民も、地域ごとに島民会を結成し、島民同士で交流を図っている。

三宅島全島避難直後、中長期的な支援活動を行うことを目指して三宅と東京の団体によって「三宅島災害・東京ボランティア支援センター」が設立された。そして同センターは、島民とボランティアと行政機関を相互に結びつける存在となった。島民電話帳の作成や、島の様子を撮影したビデオの配布、ニュース配信用のFAX設置など、島民交流の場作りと情報の発信などを行ってきた。

こうした各種の支援グループには、神戸やそれ以降の災害救援に関わってきた人や団体が数多く関わり、その経験と教訓を共有しようとしている。神戸で活動を続けていたあるボランティアは、三宅について、

神戸よりずっと少ない人数が、ずっと広い地域に分散してしまっている。集まる場所もないし、被災地も直接見ることができないから、支援運動もつくり辛い。阪神で同じような分散を見てきた一人として、三宅の人の苦しみを表現すべき時に、神戸のことを役立てられたら。

と、その想いを語っていた。

[了]

◉初出誌
『月刊まち・コミ』(2001年6月号,まち・コミュニケーション発行)掲載を加筆し再録。
#文中に登場する名称・データ等は、初出当時の情況に基づいています。

◉データ
第2回三宅島島民ふれあい集会
     〜がんばろう三宅島! 笑顔で帰れる日のために〜
開催日:2001年4月15日 10:30〜15:30
場所:東京都港区・港区立芝浦小学校
主催:三宅島島民ふれあい集会実行委員会
     (三宅島島民連絡会、三宅島社会福祉協議会、
     東京災害ボランティアネットワーク、
     三宅島災害・東京ボランティア支援センター)
共催:東京都三宅島三宅村
後援:東京都、東京都港区

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Text & Photos kin

震災発サイト管理人。三宅島支援は、初期に情報ボランティアとして関わった。

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第2回 三宅島島民ふれあい集会〜がんばろう三宅島! 笑顔で帰れる日のために〜(東京都港区・芝浦小学校 2001年4月15日)
第2回三宅島島民ふれあい集会
(港区・芝浦小学校) 2001年4月15日
都副知事をはじめ都建設局等が説明に立った。(東京都港区・芝浦小学校 2001年4月15日)
都副知事をはじめ都建設局等
(港区・芝浦小学校) 2001年4月15日
体育館では「島民懇談会」が開催された。(東京都港区・芝浦小学校 2001年4月15日)
体育館で「島民懇談会」が開催
(港区・芝浦小学校) 2001年4月15日
第2回 三宅島島民ふれあい集会〜がんばろう三宅島! 笑顔で帰れる日のために〜(東京都港区・芝浦小学校 2001年4月15日)
第2回三宅島島民ふれあい集会
(港区・芝浦小学校) 2001年4月15日
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(港区・芝浦小学校) 2001年4月15日
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