阪神・淡路大震災で失われたモノ、残されたモノ、生まれたモノ…そんな記憶を記録します。

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青池憲司コラム

鷹取での2日間(1)

神戸市長田区 ◉ 2007年5月26日
たかとり教会の献堂式 & 竣工式

text by 青池憲司

2007.6.3  up
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5月26日、新しいカトリックたかとり教会が完成して、その献堂式・竣工式に出席した。約4か月ぶりの被災地KOBEである。かつて、神田裕神父は「地域の住民さんの生活復興なくて、教会の再建なし」といった。わたしもその志にふかく共感していた。教会というよりまちの集会所といった趣(これはいままでもそうだったが)の玄関を入っていくと、ほぼ真四角の敷地の正面奥が聖堂それに連なる三方の向かって右手が司祭館など教会関係の施設、左手と玄関上のスペースがここに集まる諸グループ・団体の部屋である。四方の建物の真ん中はなにもない空間で芝生が植えられている。その中庭がすっきりときょうの青空によくマッチしている。

中庭に立って周りを見回すと、かんちゃん(神田神父)がシャツにGパン、首に白いタオルをかけたいつものスタイルで、午後2時からはじまる式典の準備をしている。首にタオルは12年間かわっていない。お祝いを述べる。握手しながらふたりの口からでたのは「時はくるものだね」ということばだった。震災当時、この日がいつくるのかなど予想だにできなかった。でも、その時はやってきたのだ。時を招来させたのは信者さんと地域の人たちの恊働の力である。かんちゃんが、いや神田神父が案内する大阪大司教区のレオ池長潤大司教と神林神父のうしろについて、わたしも聖堂内を見て歩いた。

震災で焼けるまえの、漢字で表記した鷹取教会をわたしは何度か訪ねたことがあって、地震で損壊したがつい最近まで使われていた司祭館に泊めてもらったりした。それは1993年の夏のことだった。そのころの聖堂は木造の平屋づくりで、入り口の靴脱ぎ場でスリッパに履き替えて入場した覚えがある。ミサに参列して、若き主任司祭かんちゃんの説教をきいていると、開け放たれた窓から、隣家でパンパンと布団を干す音やむずかる幼児の声などがきこえてきて、まことにのどかな日曜日の朝をすごしたことを記憶している。震災のとき、"ここで火が止まった"とマスコミに喧伝されたキリスト像は、そのころはまだ建っていなかった。いや、あったかな?うん、あった、だけど印象に残っていない。

よく覚えているのは、当時はもう廃園になっていた幼稚園舎の前の蛇口がたくさん付いた園児用の水飲み場である。教会に泊めてもらった次の朝はここで顔を洗った。わたしは、かならず二日酔で、こみあげてくる吐き気とたたかいながらの歯磨きであった。それを見ていた、教会の賄い係の堤さんがいったものだ。「うちの神父さんはなんでこんな変な人ばっかり連れてきはるんやろ」。その堤さんとも震災直後の教会で再会した。敷地内の、聖堂と旧幼稚園舎は燃えてしまったが水飲み場は残った。堤さん家族が住んでいた家屋も半壊したが家族は無事だった。堤さんは、ボランティアが大勢集まってくる鷹取救援基地の台所を取り仕切り、わたしは、地域の再生を記録する撮影班の監督としての再会であった。ボランティアも撮影スタッフも水道が復旧してからは水飲み場で顔を洗ったが、わたしの朝は相変わらずの二日酔で、堤さんはヤレヤレとおもわれたことであろう。

新しいたかとり教会の献堂式は午後2時からはじまった。大阪大司教区のレオ池長潤大司教が司式を務め、その傍らに神田裕神父。式に参列する信徒さん(日本人、在日韓国人、在日ヴェトナム人ほか在日する外国人)は聖堂の外にまであふれ、その顔はみな晴れやかだった。わたしは、かつて、この敷地内を、足掛け5年の撮影活動の拠点としてつかわせていただいた感謝のきもちをこめて、聖堂外の中庭の一隅から式進行を見守った。阪神大震災からの地域復興の歳月を記録した映画、記憶のための連作『野田北部・鷹取の人びと』(全14部)は、鷹取救援基地と地域の力に支えられて完成したといっても過言ではない。

この日は、野田北部の住民さんや復興活動に携わった人たちも大勢参加して献堂式を祝った。この教会がカトリック信者だけのものではなく、かんちゃん(神田神父)がいつもいっていた「地域に開かれた教会」であることをあらためて印象づけた。集まったのは、多くが、わたしにも馴染みのある人たちであった。長野県南木曽の人たちがいた。かつて、鷹取救援基地のボランティア活動のひとつに木工日用品の製作と仮設住宅への配布があったが、その木材は南木曽から送られてきた。新しい聖堂の祭壇は樹齢350年の南木曽の檜である。かれらは、献堂式ののちに開かれた祝賀会で信州のおいしい樽酒を振る舞ってくれた。もちろん、野田北部まちづくり協議会の面々と地域の人たちがいた。コー・プランをはじめとする、住民主体のまちづくりを支援する専門家グループやコンサルタントの人たちがいた。かつて復興支援活動に従事し、いまはこの地を離れた教会関係の人たちがいた。そこには、多くのおおくの笑顔があった。そして、わたしたちは文字通り旧交を暖めあった。

この日の式典には台湾からも参加者があった。新故郷文教基金会の人たちである。かつて、たかとり教会にあって地域住民の集会所としてつかわれていた(日曜日には聖堂になった)「たかとりペーパードーム」が、教会の再建工事にともない解体されようとしていたとき、台湾921地震(99年)の被災地の人たちが神戸を訪問した。阪神大震災10周年にあたり、日台被災地住民の友好交流が目的で、その歓迎会が「たかとりペーパードーム」で開かれた。そのとき、訪問団団長の新故郷文教基金会・廖嘉展理事長から、「こんなに記念的価値のある建物を台湾で再生することはできないだろうか。両被災地をつなぐ友好の懸け橋にできないだろうか」との提案があった。以後、日本と台湾双方で推進委員会が設立され、「たかとりペーパードーム台湾再生計画」は進展し、解体されたペーパードームの建築部材が台湾に運ばれ、いま、台湾南投縣埔里鎮桃米里で移築工事が進んでいる。ことしの9月21日に落成の予定だという。

新しいたかとり教会完成のお祝いに参じてくれたのは、新故郷文教基金会の廖嘉展理事長と顔新珠さん、何貞清さんらである。顔さんは映像作家でもあって、「たかとりペーパードーム台湾再生計画」のプロセスをヴィデオで記録している。この日も式典の一部始終を精力的に撮影していた。わたしにも出演の申し込みがあり、大国公園でインタヴューを受け、「桃米里に建つペーパードームが、国の壁を越えて、被災地どうしの、さらには被災をも越えて、インターコミュニティ(地域間交流)の拠点として役立ってほしい」と話した。こんどの鷹取滞在で出会い再会した人たちはまだまだいる。

[続く]

◉初出誌
「阪神大震災ドキュメンタリーヴィデオコレクション─野田北部を記録する会WEBサイト」サイト内
「連載コラム『Circuit 07』第16回&第17回」2007年6月3日&9日掲載を再録。
#文中に登場する名称・データ等は、初出当時の情況に基づいています。

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青池憲司

ドキュメンタリー映画監督。震災後、親交のあった長田区の野田北部・鷹取地区に入る。"野田北部を記録する会"を組織し5年間に渡りまちと住民の再生の日々を映像で記録。
「記憶のための連作『野田北部・鷹取の人びと』全14部」(1995年〜99年,山形国際ドキュメンタリー映画祭正式招待作品)を発表、国内外で上映。2002年「日本建築学会文化賞」受賞。

WEBサイト

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