阪神・淡路大震災で失われたモノ、残されたモノ、生まれたモノ…そんな記憶を記録します。

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◉コラム

震災発 ❷
入浴介助、ボランティア、日常へ

芦屋市 ◉ 1995年2月〜

text by Mizuemon

1997.3.1  up
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ひとりのボランティアの行動

その時期に私が唯一やっていた活動は、1月から週一回ペースで続けていた、身障者の入浴介助だった。最初、高校生らが民生委員めぐりから彼女らの住所を聞き出し、直接要望を聞くと、水もガスもなく、自衛隊風呂は深すぎるので、銭湯に連れていってほしいとのことだった。そのときたまたま事務所にいた私ともうひとり女の子が、渡された地図を頼りに神戸市の東端の青木駅前の市営住宅に行くことになった。1階部分は全て車椅子で生活できるように改造されていて、重度障害者とその家族たちが住んでいる。目の前に身障者住宅がありながら、青木の駅にはエレベーターがなかった。地震の瓦礫がなくても、簡単には外にも出られないだろう。

私たちは、依頼してきた人と、その友人たちを言われるまま電車で20分ほどの尼崎の銭湯に連れて行き、かなりアクロバティックに風呂に入れた。その人は、むっちゃ長湯でわがままで、私は大変だった。帰り、家まで送って「また来るわ。」とサヨナラしたとき、その人は怒っているように見えた。1週間ほどして風邪ひきのまま、また行くと、前回と違ってとても普通に接してくれた。想像するに、今までのその人の生涯で「また来るわ」と言って本当に来た人は果して何人いたんだろうと思う。地味な福祉ボランティアに、話の種で一回だけ来た人も大勢いたことだろう。まして、入浴介助なんて素っ裸になるのに、入れかわりたちかわり一現さんにやられたらいい気はしない。

私は、続けるために友人としてつきあっていこうと思った。無理せず、喧嘩したいならして、言いたいこと言い合っていこうと。友人としてならずっと付き合っていける。風邪ひいてしんどいなら電話すればいいし、相手も風邪を信用してくれるだろう。幸いその人はとても行動的な面白い人で、知人、友人が沢山おり、続けるために、というより面白いから続くというかんじだった。私にたくさん説教たれてくれて、聞き取りにくいんで「なに言うとんかわからへんわ」「耳悪いんか」などののしりあいつつ。網戸洗え、食器並べ替えろなど注文も多かったけど、ごはん食べさせてもらったりと美味しい目にもたくさんあった。そんな折、友人も多いその人が、なぜ弱小無名ボランティアに入浴介助なんて依頼したのか聞いてみた。答えは、「始めは使い捨てボランティアのつもりやった。」という返事だった。その人の今までのボランティアとの出会いが少し見えた気がして、言葉が出なかった。

3月の中旬、その市営住宅で水とガスが通ったことを秘密にされていた私は、友達を誘って迎えにいった。秘密にしていたくせに「せっかく来てくれたんやから」と、近くの自衛隊風呂に連れて行けという。入浴介助の最後の仕事だった。よく晴れた春の日で、私たちは機嫌良く車椅子を押した。二重に張った国防色のテントの中は薄暗く、とてつもなく深い風呂でびっくりした。私は中腰で彼女を支えた。もう、家で旦那や家族や震災前からのボランティアのプロが入れてくれるのに、私はなんや光栄に思った。そのあとは、たまに風呂を借りに行ったり、酒飲んだり、少し家事手伝ったり、そんなことばかり。

泊まり込みや、特殊なボランティアは本当は足りているんじゃないかと思った。例えば、車椅子で外出するとき、通りすがりの人が「駅まで一緒やし」と、同じ方向なら押していく。その繰り返しで本当はもっと出掛けられるはずだと思う。スロープが、エレベーターが、というハード面はある程度はできてきている。身障者や高齢者を集団で束ねて日影に置いておくような今までのやり方では、通りすがりの人が気軽に声を掛ける土壌は生まれない。いろんな人が出会うこと、それに尽きると思う。

災害ボランティアと呼ばれる人々が一過性にしろ動くのは、とてもいいことだと思う。自分の目で被災地を歩いてみることもとても大事だと思う。ただ、被災地と自分の住む地が抱えている問題のほとんどは、実は同じだということに気づいて帰ってほしい。孤独死は仮設に限らず普通の街で日常起こっていることだし、車椅子だと地震がなくても外には出にくい。スロープが、というハード面だけではなく、周囲の心の準備ができてないから。ちょっとバケツの水を運びたいばーちゃんが気軽に頼めるような若者の友人がいないこと、政治が勝手なことをするのに、結局任せきりにして愚痴だけの無関心な市民のことなどなど。

仮設の独居老人にはうるさいけど、自分の隣人の顔も知らない、それが問題だと思う。災害は起こる。どれだけ予防策練っても絶対はあり得ない。その、起こった災害にどう対処するか、どう付き合っていくか、付き合っていける土壌があるかが問題だと思う。そのための第一歩が、知ることだと思う。知らないことは幸せではないし、免罪符にもならない。隣人を、現状を、問題を、人間と地球をどんどん知って、何かを感じていくことだと思う。

自宅に帰ろう

芦屋で心身共に煮詰まっていた私が、何故帰れなかったかといえば、団体の存続にかかわることだったからだ。ごくたまにしかたいした活動もせず、名実共にあってないようなものになっていたけど、私一人の判断で潰すような事をしていいのかも判断できなかった。リーダー的存在のI氏は、4月頃にさっさと自分の道を見つけて、「あとは任せた」とばかりに西宮市で泊り込んで給料付きの活動をしていた。私もその時帰るべきだったと今は思う。その時はずっと、えらい責任かぶってもたんやわ、とひるんでいた。無責任ながら自分で判断することを怠っていた。ちゃんとやり通す気もないのに、被災地から離れる事や、決めてしまうことはこわかった。欲張りすぎていたと思う。

何ヵ月も経って、私が夏に自宅に戻った直接のきっかけは、簡単なことだった。仮設を見ていて、私自身の祖母が電車で1時間の姫路で、長い間独り暮らしをしていることをやっと意識したからだ。いつでも行ける、という安心感で気になりながらも余り遊びにも行かず、電話もしなかった自分。震災で学んだ事の一つだと思う。私にできる事はそれだと思い、荷物をまとめた。

日常へ

私は、日常とボランティアのバランスでまだぎくしゃくしていたけど、それも友人たちの依頼や、自分の興味で動くことで次第に解決していった。震災は、起きてしまったし、それを忘れることは、見て感じてしまった人にはできない。忘れなくてもいいから、その衝撃を消化した余韻や記憶とどう付き合っていくか。深刻ぶれとは言わないけど、6000人以上も亡くなったことをただの衝撃で終わらせてほしくはない。その後に起きたことも、もっとちゃんと見ていてほしい。自分の家が潰れたわけではないけど、決して知らない人の問題ではないということに気づいたら、もっと面白いと思う。

私自身が震災で成長したとは余り思わないけど、大きなきっかけではあった。とにかくいろんな人に出会えて本当に良かった。2年経って今言えることは、それがすべてだ。

[了]

◉初出誌
1997年3月1日執筆・未発表。
#文中に登場する名称・データ等は、初出当時の情況に基づいています。

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Text Mizuemon

主婦。震災当時、大阪在住で20代前半。芦屋市、神戸市長田区などで震災ボランティアとして活動した。

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