阪神・淡路大震災で失われたモノ、残されたモノ、生まれたモノ…そんな記憶を記録します。

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青池憲司コラム

060116-17 in KOBE(2)

神戸市長田区 ◉ 2006年1月17日
野田北部〜新長田駅前〜神戸国際展示場〜御蔵

text by 青池憲司

2006.1.30  up
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(承前)

17日(火)。未明の大国公園。地域の人たちと鎮魂の蝋燭を灯す。夜半すぎまでぐずついていた空模様は大事にいたらず風もなく暖かい。例年とおなじく、在日韓国人僧侶の吹く笛の音が周りの静寂と参会者のこころをつつみこむようにながれている。中天には十三夜の月。その光を仰ぎながらカトリックたかとり教会へ。いまは、再建のために建物がすべて取り壊されて更地になっている。その真ん中あたりにたきびが焚かれて人びとが集っている。ことしはここでのミサはなく信者さんと地元の人たちが黙祷をした。敷地のなかには廃材や瓦礫の山があちこちにあって、さながら、震災直後をおもわせる光景である。

熱々の豚汁をいただきながらたきびのまわりでご参集の面々とことばを交わす。高木良行さん、「ことしのはじまりやね」。いまだに、被災地の多くの人たちの実感である。高木さんは、地域の復興活動に欠かせないキャラクターで、この人がいると座が硬直しないですむ。電気工事の専門職として、地元の行事やイベントにその職技をふるっている。わがWebサイトのトップページの絵の作者であることはご案内のとおり。鈴木みっちゃん、たかとり教会の信徒で、震災直後から鷹取救援基地の事務長的な役割を担った。激務であった。自宅(半壊)は近くにあったが、早朝から深夜まで基地に詰めて、7−11以上の営業時間で基地内の活動を整えた。全国からやってきたボランティアで、かんちゃん(神田神父)の顔は知らなくてもこの人の顔を知らない者はいない。いまは、高齢者の福祉や子どもたちのサポート活動に精力的な日々をおくっている。鈴木さん(みっちゃんの旦那、名前失念、ごめんなさい)、基地の諸掛り遊軍でたきび奉行。寡黙でにこやか、とくに何をするというのではないのだが、この人がいないと1日がはじまらず終らなかった。Miguel Angel神父、ここ数年間、助祭としてたかとり教会に勤務し、信徒のみならず地域の人たちにもミケちゃんと呼ばれて親しまれた。いまはスペインにかえっているが出張で来日、この日の朝を鷹取で迎えた。かれは、Benposta Nacion de Muchachos=ベンポスタ・子ども共和国(わたしは、同名タイトルのドキュメンタリー映画を1991年に発表した)のシルバ神父と面識があり、しばし、ふたりでベンポスタダ談義をする。大阪からボランティアできていたトーコ、彼女も毎年この日の朝は鷹取にいる。

明るくなって7時半、野田北ゲストハウス(野田北部まちづくり協議会事務所の2階にあり、わたしの神戸での定宿)にもどり一憩。9時半、階下の事務所へ。浅山三郎会長、塚原成幸さん(元・長野大学ボランティアリーダー)と笹本さん(元・長野大学ボランティア)。塚原さんはクラウン(道化師)、笹本さんは水泳のインストラクターをしている。かんちゃんがいる。せっちゃん(河合節二さん)と村本もいる。ふたりは朝からきこしめしてごきげんである。コーヒーを飲みながら、ひさしぶりに浅山さんとゆっくり話をする。ただし、まちづくりのことではない。浅山さんは、昨年秋に胃潰瘍の処置(手術ではなく)をした。鼻から管を入れてその先の器具で出血している箇所を止めていくのだそうだ。ホチキスでモノを止めるように。医師がキューをだし助手がリモートを操作して傷口を止めていくのだが、その音がパチッパチッときこえるのだそうな。患者は、処置を受けながらその進行をモニターで観賞できる。いい見物だったよ、と会長。いい度胸だ、とわたし。自分の腹のなかの処置過程を生中継で見るなんてとてもできない、とかんちゃん。

11時すぎ、JR新長田駅前の広場へ。夕刻からの「1.17KOBEに灯りを in ながた」の設営がはじまっている。作業中の和田幹司実行委員長、僧侶の明石さんと話す。おふたりとも旧知の方である。「去年までは竹筒を切ったものに蝋燭を灯していたのだが、ことしは助成金の打ち切りもあってペットボトルで代用せざるをえない」という。行政の金は10周年で使い切ったということか。ここから歩いて3分、「神戸定住外国人支援センター」(KFC)の事務所へ。代表の金宣吉さんと会う。わたしと会うときのかれは、話10のうち9割がたはボヤイテいる。かれのボヤキには批評という味があって、それがこの人の力の素である。かれのボヤキがきけるかぎり、かわることなく戦闘的にこの世の中とわたりあっているとみてよいだろう。そのかぎりでいえば、宣吉さん、ことしも元気だ。ここに同居している「日本ベトナム友好協会」の中村さんともおひさしぶりの挨拶。中村さんは震災直後に「被災ベトナム人救援連絡会」を立ち上げ、わたしはそれ以来のおつきあいである。 1975年、ヴェトナム戦争(抗米戦争)終結の年に初訪越し、以来その回数は50回におよぶという。いっぺんゆっくり話をきかせてもらう約束をする。

同日午後。ポートライナーに乗ってポートアイランドの神戸国際展示場へ。ここで、第10回『震災対策技術展』が開かれていて、その一環のシンポジウム「公共団体と市民たちのネットワークづくり」を傍聴した。7人のパネリストが7事例の報告をする。そのうちの2人が河合せっちゃんと小林郁雄さん(コー・プラン/市民まちづくり支援ネット世話人)である。せっちゃんは、野田北部ふるさとネットの活動を報告した。朝方の状態からすれば○印。おつかれさま。小林さんは、まちづくり専門家のゆるやかな連携による住民主体のまちづくり支援の話をした。そのものずばりである。会場で室崎益輝さん(消防研究所理事長)、宮西裕司さん(まちづくり教祖を名乗るまちづくりプランナー)と顔を合わせる。終了後、宮西さんの車で御蔵へ。

同日夕刻、みくら5の「まち・コミュニケーション」事務所で、スタッフの宮定さん、吉田さん、浅野さん、上田さんと会う。17時46分、隣の小公園で行われた、この地域の「ろうそく法要」に参列する。「みくら」と蝋燭で大きな文字が描かれている。風がでて夜明け前の5時46分より寒い。たきびと篝火(かがりび)がたかれている。僧侶の読経のなかを地域の住民さんが焼香していく。田中保三さん(御蔵通5・6丁目町づくり協議会会長/まち・コミュニケーション顧問)と会う。田中さんに「11周年の印象は?」と訊かれ、「新しい震後のはじまり」とこたえる。ことしは、地震のとき小学生だった子どもたちが、自己表現としての阪神大震災を語りだすのではないかという予感がする。そんな期待あるいは願望のおもいをこめて田中さんと話した。のち、宮西さん、中橋さん(東大関係者)と"芳巳"で呑む。ビール、芋焼酎とたらちり。生の鱈が美味いうまい。酔うと電話魔になるらしい宮西さんがあっちこっちかけまくって、その成果(?)で河合せっちゃんがくる。酒席でふたりの酒がすすめば話題はきまって「真野vs.野田北」論になる。まちづくり歴40有余年の真野地区と駆け出し野田北、という図式で話は進行する。この議論はふたりの定番であって、岡目八目でいえば、かたや大関かたや力をつけてきた前頭筆頭といったところか。せっちゃんの奮闘ぶりやよし、大関も貫禄あり。両者の言論を耳に入れながら、わたしの口はひたすら焼酎と鱈をむさぼっていた。

[了]

◉初出誌
「阪神大震災ドキュメンタリーヴィデオコレクション─野田北部を記録する会WEBサイト」サイト内
「連載コラム『Circuit 06』第3回」2006年1月30日掲載を再録。
#文中に登場する名称・データ等は、初出当時の情況に基づいています。

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青池憲司

ドキュメンタリー映画監督。震災後、親交のあった長田区の野田北部・鷹取地区に入る。"野田北部を記録する会"を組織し5年間に渡りまちと住民の再生の日々を映像で記録。
「記憶のための連作『野田北部・鷹取の人びと』全14部」(1995年〜99年,山形国際ドキュメンタリー映画祭正式招待作品)を発表、国内外で上映。2002年「日本建築学会文化賞」受賞。

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