阪神・淡路大震災で失われたモノ、残されたモノ、生まれたモノ…そんな記憶を記録します。

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◉震災発コラム

満月の夕の記憶 ❶
そして、"うた"が生まれた。

ヒートウェイヴ / ソウル・フラワー・ユニオン

text by kin

2007.1  up
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J-Standard 003「元気」
オムニバス HEATWAVE、KAN、CHARA、ウルフルズ、中村一義、今井美樹、岡村孝子ほか
BMG JAPAN (2004-04-21)

呼び起こされる魂の記憶

阪神・淡路大震災の発生からおよそ1ヶ月がたったころ、彼らは被災地の現場に立っていた。そしてその時にそこで彼らが目の当たりにした光景から、やがて"満月の夕"という歌が生まれた。大きくヒットすることもなかったが、その後はゆっくりと浸透して広がりを見せていくこととなる。静かなる共鳴を生んだこの歌は、多くの人たちによって歌い継がれることとなった。そして現在、新たな「日本の歌」のスタンダートとして、静かに定着しつつあろう。この歌の中には、何が内在しているのだろうか。

"満月の夕"の中には、様々な記憶が閉じこめられている。それは震災の記憶であり、神戸の街の記憶であり、避難所の記憶、そして災害の記憶、さらには戦場の記憶などさまざまなものである。震災をインスピレーションに生まれた歌ではあるが、受け手がそこで呼び起こされる記憶とは、けして唯一固有のものではないというから不思議だ。その記憶とは、歌う者や聴く者それぞれの中に刻まれた様々な記憶である。そんな記憶が自然と呼び起こされるが故に、歌う者は自らの必然として歌い、また聴く者も自分の歌として胸に刻んでいくのだろう。ただ聴くだけの歌ではない。この歌を歌うみんなの心の中に、それぞれの"満月の夕"の記憶が見えてくる。

歌の誕生

大阪の自宅であの揺れを体感したソウル・フラワー・ユニオンの中川敬は、その約1ヶ月後からソウル・フラワー・モノノケ・サミットというアコースティック"チンドン楽団"を結成して幾度となく被災地に赴き、芸能娯楽ボランティアとして活動していた。そんなある日、東京にいたヒートウェイヴの山口洋は、彼らからの誘いを受けて一緒に被災地を巡って慰問ライヴを行った。そうして2人が被災地を巡っている最中に、ギターと三線で一気に書き上げたメロディが、後の"満月の夕"であったという。

"満月の夕"には、作者であるこの2人がそれぞれ所属するバンド別に、2つのオリジナル・ヴァージョンがある。この2つの曲は、メロディは当然同じものなのだが、それぞれに詞も曲調のアレンジも独自の味付けを施しており、共に個性的で魅力あふれる曲に仕上がった。

アイルランド・ドラッドからの影響を受けた山口による"ヒートウェイヴ・ヴァージョン"は、静かで強く美しいロックバラード調である。ともすると、この曲が収録されたアルバム『1995』のアルバムタイトル同様に、様々な出来事が続いたこの1995年という時代の空気をも包含するような、広く深い"時"の解釈ができるプレイだ。そのスタイルは80年代のU2を思い起こさせる。

一方、"ソウル・フラワーのヴァージョン"は、三線とチンドン太鼓、お囃子による賑やかで優しい民謡ソングに仕上がっている。その演奏は、まさしく電気のない被災地の環境や高齢者を主体とした被災者ニーズに合わせたモノノケ・サミットの活動そのものだ。こうしたアレンジになることは、おそらく曲が産まれた時点から自然と導かれていたのだろう。これは場で生まれた民謡であり大衆歌であり、まさしくバリバリのロックである。

満月の夕~90’s シングルズ
ソウル・フラワー・ユニオン
Sony Music Direct (2008-03-19)

言葉に現れた"わずかな差異"

この2つの曲は、メロディは同じであってもそのアレンジは趣を大きく異にし、それぞれ別の印象を与える。しかしそんな曲調以上に、それぞれの詞の中に現れる言葉の"わずかな差異"は、この曲の性格を左右するほどの大きなものだという。これについて2人は次のように語っている。

中川敬──『この2人の距離感の違い(歌詞)は重要で、「旅」という安易な逃げが通用しない。"オマエはオマエの現場でやらなしゃあないんや"ということを否応なく示している』(HEATWAVE"1995" 宣伝フライヤー,1995年)
山口洋──『俺は彼等のヴァージョンを歌うことは出来ない。だから東京でマスメディアが垂れ流す情報を観ていただけの立場から歌を仕上げた。この2つのヴァージョンの違いが示しているものは大きい。良し悪しの問題ではない。』(HEATWAVE"1995" Self Discographyより)

こうしていろいろなものを背負いつつも生まれたこの曲は、彼ら自身の中でも重要なものに育っていき、力強いエネルギーを内包しているかのようだ。

中川敬──『90年代の後半、この曲をやると客席から白い布が見えて。泣いてる人がいたりして。そんな前で、涙をこらえて歌わなあかんやん。かりに惰性でイントロが始まったとしても、この曲をやり始めたら心を込めざるをえない。特別なものやね。あらゆる人たちの気持ちが入ってる曲やと俺は思うよ。』
(「ソウル・フラワー・ユニオン 中川敬インタビュー」,eo音楽[eonet.jp],2007.11.22)
山口洋──『あの歌はもう俺のものでも中川某のものでもなくて、誰のものでもない。カラオケであれ、何であれ、歌ってくれてる全ての人のもんだと思う。
   自分の書いたものの中で一番人に伝わってんのに、どうして歌わないんだって、良く人に聞かれる。でも、あの歌を歌うにはものすごいエネルギーがいる。いつもあの光景がフラッシュバックしてくる。それを毎回受け止められるほど、俺はタフじゃない。』(HEATWAVE"1995" ROCK'N ROLL DIARY 2005/1/8より)

その山口は2001年に発売したベストアルバムの取材時に、一番好きな曲として挙げた。

ああいう社会的な状況(震災)もあったんだけど、俺以外の誰かの、俺にはできないものがそこにちゃんと入っているから。そういう意味でもそういうバンドがやりたかったのかなあっていう気はする。
(『おきなわJOHO』2001年9月号,63p,沖縄情報ドットネット発行,2001年)

作者たちの確かな感性が写し取ったのは、曲の背景として描かれた震災後の原風景だった。

【文中敬称略】

[続く]

LONG LONG WAY-1990-2001-
HEATWAVE
ポリドール (2001-06-21)

◉初出誌
当サイト内『震災文化コラム─満月の夕の記憶』(2007)を再構成。
#文中に登場する名称・データ等は、初出当時の情況に基づいています。

◉リンク
◉主要参考文献
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Text & Photos kin

震災発サイト管理人。ソウル・フラワー・モノノケ・サミットが被災地で活動していた時、共働した地元ボランティア団体のスタッフとして各種イベントを手伝った。
本コラムは、その活動時を含め現場で得た情報と調査、資料等から構成している。
初めて"満月"CDを聴いたのは95年10月長田。生は於96年つづら折り。

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