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◉震災発レポート

震災から5年、2つの慰霊の場で ❶
長田区御菅地区にて

神戸市長田区御蔵通 ◉ 2000年1月17日
御菅地区合同慰霊法要

text by kin

2000.1.31  up
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滋賀県マキノ町の弘海老師による法話 2000年1月17日
滋賀県マキノ町の弘海老師による法話 [クリックで拡大]

震災から5周年、今年も御蔵へ

震災5年目を迎えた2000年1月17日、長田区御蔵通の御菅地区合同慰霊法要に参列した。御菅(みすが)とは、大火に見舞われた御蔵通と菅原通を含めた地域の通称で、この周辺だけでも120余名もの方々が亡くなっている。昨年までは菅原市場の駐車場で行われていたが、今年は工事のために使用できないので御蔵通5丁目の公園予定地で行われる。

この慰霊法要には毎年参列していることになる。この公園予定地は、もともと震災後のボランティア活動で長田の拠点になっていた場所だった。1995年2月半ば、公園テント村から建設したばかりのプレハブ事務所に移動した。そしてここでの活動を始めようとした朝、皆で集まって黙祷を捧げたことをよく覚えている。当時、長田神社に住み込んで活動していた真言宗のお坊さんが、お経を読んでくれた。祈っていたその駐車場跡地が、時を経てこの公園予定地となっているのだ。

その後、活動を終了した団体のプレハブ事務所を地元ボランティアが引き継いだ。私は御蔵に不定期に通い続け、団体や街の活動に参加する。焼け野原となってしまった地からこの御蔵を見守っていた者としては、この場所で慰霊法要式が執り行われたことには、さまざまな思いが交錯した。

仮換地が進まない、まちの現状

この公園予定地を含む御蔵通5、6丁目は、地区全体が復興の区画整理の網に掛かった「御菅西地区震災復興土地区画整理事業」である。そのために区画整理が終わらないと本格的な建築を建てられないので、これまで更地だらけの街の風景に変化はなかった。しかし5年が経過し、更地に新しい道路が引かれ街の区画が現れた。ようやく「まちの姿」が見えてきたのだ。しかしながらその仮換地率(土地の配置換えが決定した割合)はまだ全体の6割に止まっているという(1999年10月時点)。

共同化住宅(複数で土地を持ち寄り大きい土地で集合住宅を建設)や受け皿住宅(従前居住者が入居できる公営集合住宅)、個人住宅なども建ち始め、少しずつプレハブの姿も減ってきた。しかしその受け皿住宅の入居数は35戸で入居率が約37%、新築・建築中の住宅戸数も19戸しかないという。震災前には300世帯以上が生活していた街からすれば、まだまだ寂しさは否めない。まちの再生にはまだ時間を要するようだが、それでも道路や建築の工事が始まり、やっと都市計画の話し合いが結果となって視覚化されることは、私には素直に喜べる光景だった。

長田の慰霊法要に集う

会場横の空き地では、地区のご婦人方がお接待の炊き出し準備をしていた。大きい釜でお米を炊き、豚汁をでっかい鍋でぐつぐつ煮ている。震災の炊き出し以来、こうした法要や祭りの場面での「デカ鍋」の登場も、ここでは珍しくなくなった。

法要会場の席が、大勢の人で埋まってきた。震災以後、まちづくりが進まないので多くの人が他の地域に移り住んだ。久しぶりの再会で話も弾み、所々でそうした輪ができている。慰霊法要を日中に行うのも、地震発生の早朝に行うと遠方の参列者が参加できないという理由もあるのだ。従前のまちの住人が集う、数少ない貴重な機会となっているのである。

新聞、テレビなどの取材陣も多い。この法要は被災地でもシンボリックな場所で行われることや、地域の力によって毎年続けられている点などで注目度も高いのだ。行政が主催する以外では、住民主体の式でこれだけ大きく組織立った所はないのである。

10時半を回り厳かに式が始まった。導師が入場する。今年も毎年お世話になっている熊本県天草の地蔵院住職荒木師をはじめとした曹洞宗青年会の20名もの僧侶の方々が全国から集まり、法要が営まれる。晴天の下、黄土色の袈裟がまばゆい。これだけの僧侶の方が集まると、場の空気も気が張りつめ読経も圧巻である。皆さん手弁当で集まって下さり、本当に有り難いことだと思う。

周りを見ると、かつてここでボランティアをしていた東京の仲間Yの姿を見つけた。またかつて長田に事務所を置いていたものの、現在では中央区に本部を移転しているNPO団体代表Jさんの姿もある。そういえば、毎年17日にこの場で会っていることになるねと話をする。そうした中に、この地でのボランティア仲間であり僧侶でもある藤井師の姿があった。震災後に地方から来たが現在では阪神に住み、いまだに長田で識字教室活動を続けている。その彼が、後ろの方で遠くから見守っていた。あれっ、藤井さんは共にお経を上げる側にはまわらないの? と訊いたら、

この場(御蔵)では、僧侶の立場じゃなくて、ひとりのボランティアとしての立場にいたいというか何というか……

との答え。震災前には普通の生活があった焼け跡の真上で活動を「させて頂いていた」者として、ただ厳粛にお祈りをしたいという、そうした想いは共感できる。この朝も午前5時46分、早朝の御蔵で藤井さんは読経を挙げた。そこには例年の如く、かつてここで活動をしていた様々な団体所属のボランティア十数人が静かに集っていた。

俺独りだけでもいいかなとか思っていたんだけれど、たくさん来てくれて嬉しかった。

と、藤井さん。

空は晴れてはいるが厚い雲が流れ、日差しが隠れたり差し込んだりと繰り返される。ご遺族の方々の後ろに列に並び、ご焼香をさせて頂いた。

式が終了し、お接待の炊き出しを頂いた。この後、藤井さんと一緒にもう一つの慰霊法要に向かうこととなる。

[続く]

◉初出誌
2000年1月末日執筆の報告文を加筆し再録。
#文中に登場する名称・データ等は、初出当時の情況に基づいています。

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Text & Photos kin

震災発サイト管理人。長田の地元ボランティア団体で活動。

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