◉震災発レポート
これぞホンマの国際都市・神戸
ソウルフラワーが菅原市場で見たもの
神戸市長田区菅原市場 ◉ 1997年3月29日
長田どんちゃん春祭り
text by kin
1997.9.3 up
菅原市場で祭りを開催
1997年3月末、長田区の菅原市場駐車場で「長田どんちゃん春祭り」という地域の復興祭りが開催された。これは震災がきっかけでこの地域で生まれたボランティア団体がいくつも集まり、地元まちづくり協議会や社会福祉協議会などの協力を受けて企画されたものだ。準備や運営を手伝うために、多くの若者が全国から集まってきた。
多大な被害を受けて復興まちづくりの途上にあるこの地域は、人が居なく元気も薄い。この"復興春祭り"が目指すのは、そんな地域に戻れず散りぢりになってしまった住民が集い楽しめる場となることや地域の活性化の一助となること、また多くの国や地域の人、ボランティア、子どもたちにより文化の紹介や交流できるような場とすすることであった。
加えて仲間内には、震災以来ここで活動をしてきたSVA神戸事務所がこの春で撤収することへの記念イベントでもある。これまで同じ地域で活動する団体同士で協力してお祭りや慰霊祭をはじめ数々の被災者支援活動を行ってきたこともあり、最後にみんなで無事に成功させることで盛り上がりの中で有終しようとの目論みである。
これぞ国際都市・神戸
祭事当日は、前日までの晴天の空とうって変わってあいにくの雨模様となってしまったが、それでも多くの人たちが来場して賑わいを見せていた。ボランティアたちは、この界隈ではおなじみとなった日本財団のロゴの入ったお揃いの"財団ポンチョ"に身を包んでいる。
会場には丹南町からやってきた"超巨大鍋"が登場。ちょっとした五右衛門風呂のような感じの大きさがある。そのベースを元にしてちゃんこ鍋やチゲ鍋、フィリピンの鍋などの炊き出しが作られる。ちゃんこは東関部屋から力士の方が作りに来てくれた。ほかにも屋台や子供のゲームコーナー、リレーマーケットなどのブースが出揃っている。
半円状のエアードームの架かったステージ上では、手弁当で駆けつけてくれた数々のバンドが盛り上げた。被災地の様々な場所で活動している「春待ちファミリーバンド」は、廃物を利用した手作りのジャンクな楽器で、見事なまでの愉しい演奏で場を和ませている。また変わったところでは、お坊さんたちによるバンド「鳥のはねスーパーバンド」も登場。
音楽だけではない。長田マダンや朝鮮歌舞団、「がじまるの会」によるエイサー、兵庫商業高校「舞獅隊」による中国獅子舞など多国籍に踊りが披露され、そして三音会による河内音頭も登場した。このあたりは関東ではなかなかお目にかかれないような珍しいものばかりだが、関西、特に神戸、そして長田では様々な行事や祭りの場で目にすることができるばかりだ。同じ空間で続けざまに観覧すると、まさに国際都市・神戸というエッセンスを凝縮して味わっているような気分になってくる。
さらには笑福亭瓶太、笑福亭銀瓶、桂わかば、桂文華さんらによるトークや、地元ミニFMラジオ局「FMわぃわぃ」のすたあと長田が担う番組の公開収録も行われ、祭りの雰囲気を盛り上げた。
ソウル・フラワー・モノノケ・クインテット登場
そうした数々の出演バンドの一つに、「ソウル・フラワー・モノノケ・クインテット」がいた。"モノノケ・クインテット"とは被災地での慰問ライブを続けているソウル・フラワー・ユニオンの別働隊「ソウル・フラワー・モノノケ・サミット」の5人編成部隊で、本来はフル編成のモノノケ・サミットで来たかったというがスケジュールの都合により、今回は特別編成での登場となったという。しかしある意味、"レア"な演奏となった。
モノノケは、祭り終盤に登場。民謡や流行り唄をちんどんスタイルで演奏すると、徐々に会場のじいちゃんばあちゃんたちも手拍子を打ち乗ってくる。震災を唄った"満月の夕"が、この御菅で披露されたのは初めてだった。ある意味で震災被災地の象徴的な場となったこの場所に響き渡った歌声は、いろいろな想いと共に見事にシンクロして集った人たちの心に染み込んできた。客の数が少なくともバックの演奏シンプルであっても、これが音楽の力なのかと感嘆するような"満月の夕"だった。そして若者は手に鳴り物を持って騒ぎ踊り、自転車で立ち止まったおっちゃんは、ハンドルのベルを懸命に鳴らしている。"インターナショナル"で、祭りの興奮は最高潮に達した。ここだけアジールの解放区となっているようだった。後ろの方ほうでは、雨の中でパトロールの警官もふと立ち止まってステージに目をやっていた。
市場内に入り三線の調弦をしていると…
盛り上がりに盛り上がった演奏が終わると、観客からはアンコールを求める声が出た。それに応えるべく一端ステージを降りたヴォーカルの中川敬は、アコーディオンの奥野真哉を伴って三線のチューニング(調弦)をするために仮設プレハブ店舗の菅原市場まで雨の中を小走りに駆け込んでいった。菅原市場内は通路の両脇に対面型の店舗が建ち並んでおり、市場の入り口をガラスのドアが仕切っているためにステージの喧噪とは一線を画して音合わせができる。
しかし彼らが市場の中に入ると、お店の人たちやお客さんが彼らを取り囲み、音を合わせているにも関わらず盛んに話しかけてきた。
私ら店開けなあかんから観れんけど、さっきからあんたらの歌聴いてるでぇ
がんばってやっ
あんた、音合わせてるんやから話しかけちゃいかんて
それに苦笑しながら、受け応えたり相づちを打ちつつも速やかにチューニングを済ませると、再び彼らはステージへと駆け戻って演奏を再開し、アンコールに突入していった。だが後に打ち上げの場において中川は、このチューニング中に囲まれた時のことを思い返し、
今日、ほんまにここに来て良かったなあ……
と実感した瞬間であったと懐柔する。震災直後から被災地のさまざまな場所で演奏活動を続けていた彼らソウル・フラワーも、被災地のシンボル的な場であり、また演奏場所のコーディネートやサポートをしていたボランティア団体の活動拠点でもあったこの「御菅」で演るのは、これが初めてだった。
それだけにここで演る意味や想いも強く、雨の中でも集まった数百人ほどの観客を前にしての演奏であっても、やり甲斐を感じていたという。その想いはステージ前の客のみならず、仮設店舗にて営業中の店番の方の「耳」のほうにもしっかりと届いていた。
中川敬は、
例え普段のソウル・フラワー・ユニオン時の「日比谷野外音楽堂2千人ライヴ」などと比べても、オレはこっちを選ぶね。
とまで断言したほどだった。
アンコールの「長田どんちゃん」では、河内音頭「三音会」の歌者や「がじまるの会」のエイサー太鼓も加わって、会場全体が盛り上がった。観客も立ち上がって踊り、沖縄民謡の"安里屋ユンタ"で締めくくられた。
この市場周辺の区画整理は依然として進まず、更地の広がるこの地に住民が戻る見通しは未だに立っていない。わざわざ祭りなどをしなくても地域に人々が戻り、コミュニティを形作るようになるのは、一体いつの事になるのだろうか。
[了]
[文中敬称略]
追記(2010年)
1997年3月の「長田どんちゃん春祭り」の後、菅原市場のある御菅東地区の震災復興土地区画整理事業は、1997年10月に仮換地指定が開始しされ、2003年4月に換地処分公告(区画整理により土地の関係権利が新しいものに決定)となった。
1920年(大正9年)に開設された菅原市場は1995年の震災で全焼し、同年5月25日に22店入居の共同仮設店舗としてオープン。そして区画整理事業に伴い1999年閉鎖し、2000年11月21日に「味彩館Sugahara」として再オープンした。
菅原市場東側駐車場は、現在「すがはらすいせん公園(御菅南公園)」となっている。公園の愛称は、天皇皇后両陛下が慰問された際に、皇居に生えていた水仙の花を手向けられたことに由来している。
◉初出誌
ミニコミ誌『学級日記』第4号(自主発行,1997年9月3日発行)掲載を加筆し再録。
#文中に登場する名称・データ等は、初出当時の情況に基づいています。
◉データ
長田どんちゃん春祭り
開催日:1997年3月29日 10:00〜18:00
場所:神戸市長田区菅原市場東側駐車場
主催:長田どんちゃん春祭り実行委員会
[実行委員会]:すたあと長田、まち・コミュニケーション、SVA神戸、
青い空★KOBE、プロジェクト1・2、ちびくろ救援ぐるーぷ、
FMわぃわぃ、兵庫県生活復興支援事業実行委員会
(フェニックス・リレーマーケット)
共催:菅原市場
協力:丹波丹南四季の森会館、丹南町友愛の会、キリンビール株式会社
神戸支店、いい顔笑顔人形劇の会、関西電力神戸電力所、大東石油、
御菅3・4地区復興対策協議会、御蔵通5・6丁目町づくり協議会、
御菅地区のみなさん、神戸市(順不同)
後援:社会福祉法人神戸市長田区社会福祉協議会
- 『Weekly Needs Web版』号外「長田どんちゃん春祭り レポート」 - すたあと長田
- 御菅東地区震災復興土地区画整理事業 - 神戸市都市計画総局
- 味彩館Sugahara