阪神・淡路大震災で失われたモノ、残されたモノ、生まれたモノ…そんな記憶を記録します。

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青池憲司コラム

KOBEから・まちの変幻4
野田北部・鷹取の1年

神戸市長田区 ◉ 1996年1月

text by 青池憲司

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1996年1月17日未明、わたしは長田区野田北部の大国公園にいた。スタッフ三人がいっしょだった。闇の中で十数人の僧侶があげる読経がきこえていた。

野田北部まちづくり協議会の浅山三郎会長と出会った。開口一番「きょうから1996年が始まる。ことしはそんな気分や」といった。同感であった。

私たちスタッフが、日ごろなにかと世話になっているK女さんは、前夜から気もちが昴って一睡もできず、5時過ぎに公園にやってきた。「昨年のいまごろは地獄だった」とひとこといって涙ぐんだ。

まだ暗いまちの一角だけがテレビ撮影用のライトに白々と照らし出されていた。全焼した海運町の更地と鷹取商店街である。そこの仮設店舗でサンパツ屋をしているHさんは、寝床のなかで呼び鈴の音をきいた。数日前から取材申しこみがあり、断っていたにもかかわらず、昨夜から点けたままにしておいた電灯を見て、再度の出演依頼のようであった。Hさんは鳴りつづけるベルに応えなかった。

5時46分、鷹取救援基地では、教会関係者、基地スタッフとボランティア、われわれ撮影隊、そのときそこに居合わせた全員が集まって黙祷した。K神父は「震災で失ったものは多かったが、得たものも多かった。それは人との新しい出会いであった」と話した。これこそが被災者を1年間支えてきたエネルギーではなかったか。

7時まえ、うっすらと明るくなってくるとヘリコプターが飛来しはじめ、あの日と同じように爆音が空を覆った。大学の助手をしているOくんがいった。

「この音がいちばんいやですね。近所のこどもで、この音をきくとおびえた顔をする子がいまだにいますよ。きょうこんなにヘリを飛ばすなんて、マスコミはあいかわらず無神経だな」。

明るくなって、海運町2丁目3丁目の更地を訪れる家族の姿がふえてきた。この2丁だけでも16人のかたが亡くなっている。まだ家の建たない災厄の跡地にたたずむ家族、祈る光景は終日みられた。

このようにして、阪神大震災から1周年の日を、被災地では、個人が、家族が、地域がそれぞれの思いで過ごした。みんなの気もちの底にあったのは、1周年をひとつの節にはしながらも、きのうにつづくきょうという平常心であった。震災直後からそのように日を繋げてきた、野田北部・鷹取の復興の日々をダイアリー風に辿ってみよう。

戦場の日々——

この1年の復興のうごきを概括的にみると、4つの時期に分けられると思う。第1期(と仮によぶ)は、震災直後から4月中旬ころまで。第2期は5月の大型連休まえから8月のお盆のころまで。第3期は9月、10月。第4期は11月から96年1月までである。わたしの個人的な区分けであるが、キャメラとマイクを通して見た、野田北部のうねりの推移でもある。

第1期は戦場の日々であった。日変わり、あるいは時間きざみで事態が変化していくなかで、野田北部まちづくり協議会は復興対策委員会の立ちあげはすでに震災直後からであり、地域としての一体感が、個人の胸のうちにも集団のうちにもみなぎっていた。ひとりではなにもできないという負の発想ではなく、まず自分たちの住む地域全体が直面する諸問題に立ちむかっていこうという、大きな視野を人びとはもっていた。

このころの対策本部は24時間営業の体制であった。地域住民の被災状況の把握はもとより、救援物資の配分、行政との交渉、本部へさまざまな相談ごとで訪ねてくる人たちへの対応、毎夜の防犯夜まわりなど、役員の何人かは集会所へ泊まりこんでの活動が4月の初めまでつづいた。

復興対策委員会は週に1回開かれたが、メンバーは各町丁から自発的に参加してきた人たちで構成された。そこでは、建築基準法などのまちづくりの基本的な知識の勉強と議論がかわされた。

第2回の委員会(2月17日)で土地区画整理事業と地区計画の話がされた。それはまだほんのトバクチで、手さぐりではあったが、野田北部・鷹取がこんにちまで抱える根本的な問題が、すでにみんなの意識にのぼっていたのだ。

焼けてしまった海運町2・3丁目は区画整理で新しいまちが出来るが、全壊・半壊の本庄町、長楽町はどのようなまちになるのか。放っておいたら、まち並みとしても人間づきあいでも勝手バラバラなまちになってしまうのではないか、というおそれと不安であった。それは、本庄、長楽のまちづくりの主体を誰が担うのかという問題である。自分たち(住民)だけでやりきれるか、必ずいる無関心な人たち、新しいまちなど望まない消極的な人たちの気もちをまちづくりにむけ、説得していけるだろうか。区画整理ではよくも(?)わるくも行政からの強制力があり、それがまちづくりの推進力になる。しかし、地区計画は住民自身がルールをつくり、みんなの総意としてまとめあげていかねばならない。たいへんな作業である。そのしんどさを思うと、「本庄、長楽はなぜ区画整理の対象にならないのか」という声も出たほどである。

この時期、地域では倒壊した家屋の解体、焼け跡のガレキの撤去がはじまり、人もまちも激しくうごいていた。にもかかわらずというか、それゆえにというか、復興対策委員会も回ごとに熱心さが増していった。

3月17日に海運町2・3丁目が区画整理事業区域に指定されてから、議論はどうしてもそのことに集中したが、平行して地区計画についての話も進められた。区画整理の網のかかっている地域とかかっていない地域で同じようにまちづくりをしていかないと、地区全体の「まちなみ形成」がバラバラになってしまうので、統一したルールを作っておくべきだという判断からである。

難儀な仕事——

第2期、4月下旬のゴールデンウィークを目前にしたころから、復興対策本部の役員だけではなく、住民全体に疲労がめだってきた。地震直後の被害はもちろんだが、その後の復興へむかう日々は全力疾走の3ヶ月間であった。疲労の極にあったといった方がよい。この3ヶ月間は「非常時の時間」あるいは「被災地固有の日常の時間」がながれていて、人びとはそれに慣れてしまっていた。しかも、バリヤーを張ったわけでもないのに、被災地の外の日常の時間(震災の前と後で切れていない)と、あまりまじわることがなかった。大阪まで行けば異なる時間の流れに遭遇しただろうが、野田北部の人たちはこの時期、生活とまちの再建に追われて、仕事以外でこの地を離れることは殆どなかった。だから、大型連休という世間の時間につきあわざるをえなくなったとき、ゆううつになりドッと疲れを感じたのである。「地域のうごきに没頭して過ごした心身を、世間の時間にむかい合わせるときは身をよじられる思いがじた」と、いまもまちづくり協議会の活動に専念しているYさんが話してくれたことがある。これはYさんだけの感覚ではなく、多かれすくなかれ、被災地の人たちのものだったと思う。ちなみに、Yさんはゴールデンウィークの間ひたすら寝てくらしたそうだが、正しい身の処しかただったというべきだろう。

それにしても、この時期(4月〜7月)、野田北部の人たちはじつによく勉強し議論している。「土地区画整理事業の話しあい」で、道路位置と幅員をめぐってカンカンガクガクやり、「家並み形成・地区計画について」話しあい、「住居の建て替えパターン」を検討し、「商店街の仮設店舗づくり」の計画を練るといった按配である。

5月下旬、海運町2・3丁目のまちづくり素案が提出された。震災前から野田北部のまちづくりにコンサルタントとして携わっている建築家の森崎輝行さんが、地元の計画案として住民の意見をまとめて作ったものである。素案の概要は、幅4.5メートルのコミュニティ道路を新しく2本建設し、隣接する大国公園への避難路とする。約350平方メートルのポケットパークを整備する。2丁目の北端に受け皿住宅を建設するなどのプランが盛り込まれていた。海運町2・3丁目のそれぞれの会議では、減歩率(10%未満に抑える)などの不確定要素について不満と不安はあったものの、森崎私案は賛成多数で採択され、海運町の住民意見として市に提出されることになった。

6月に入ると、本庄町、長楽町は新築ラッシュになった。全壊・半壊した家の建て替えが始まったのだ。復興対策本部の若手のメンバーは焦った。地区計画をつくるまえにどんどん建てかえられてしまったら、まちなみ形成なんて話はそれこそ絵に描いた餅になってしまう。もちろん、区画整理にかかっていない所では、家は自由に建てられる。建築基準法の建ぺい率をまもらず、震災前と同じように敷地いっぱいに建てようとする人もすでに出てきた。これをどうするか。違反建築を取り締まるのは市の住宅局の仕事だが、行政まかせにしないで、まちづくり協議会でも住民と話しあい、理解を求めていくことにした。しかし、これは、いうは易く行うは難しである。同じ町内のAさんBさんに(仮りに違法であっても)、それを指摘するのは勇気のいることだ。「まちづくりは人づくりというけれど、難儀やなあ」とためいきが出た。

7月、野田北部の海運町2・3丁目と、同じ区画整理事業の網をかけられた旭若松地区の町丁が合同して、鷹取東復興まちづくり協議会があらたにつくられた。これは、焼け出された地区がいっしょに復興計画を立てていこうというものであるが、両地区の震災以前からの成り立ちの相違や、震災後の歩みかたにちがいもあって、対行政のスタンスのとりかたを決めるにも時間がかかる。行政に提案を前にしてなかなか共同歩調がとれないのだ。とはいえ、これは復興まちづくりのプロセスに必ずあらわれてくる症状であって、あるときどんな諍いをしても、到達すべき目標を見失っていなければおそれることはない。ときに罵りありになる議論も活力の証しである。——というふうにわたしにはみえている。

過ぎ去ってしまうとなかなか思いかえせないのだが、それにしても95年の夏は暑かった。さすがに勤勉(?)な野田北部・鷹取の人たちも、仕事の汗ならぬ遊びの汗をながそうよと、「しぼりだせ! 大国公園夏まつり」を計画した。

8月5日、大国公園の内外に住民とボランティア手作りの屋台がならび、ヤキソバ、わたがし、たこやきなどの定番といっしょに、韓国やヴェトナムの食べものも売られた。この地域に住む人あげてのお祭りとなった。こどもたちの引くだんじりが太鼓の音を響かせながら、まだまだ更地の残る地域を練り歩いた。連れ添ったおとなたちは、わが町の変わりはてた姿にあらためてボウゼンとした。年老いた両親とふたりのこどもを一瞬にして亡くしたMさんが、唇を噛みしめながら発したことばが忘れられない。「ぼくらがこどものころ馴染んだまち、おとなになって家族とくらしたまち、いまはすべてが無くなってしまったが、100年後のこどもたちにも喜ばれるまちとして、いま、おれたちが創らねばならない」。

夜になって盆踊りがあり、日ごろ対立していた人たちも同じ輪で踊った。フィナーレで「上を向いて歩こう」の大合唱になり、みんな泣いた。思いっきりしぼりだした汗と、思いっきりながした涙でこの夏はいい夏になった。

鷹取に立った虹——

第3期の9月、10月は誰もが眠っていたかにみえた。あるいは死んだふりをしていた。気持ちはハヤレど体がうごかない。こういうときは休めヤスメだ。頭は活きていたが体が休眠状態。

第4期、11月になると急速に人もまちもうごきだした。初旬に、鷹取東地区の区画整理事業の事業決定が出た。減歩率9%への不満と、道路や公園よりまず家をつくれ、の声をなおひきずりながら、区画整理はあらたな段階に入った。

それにうながされるように、野田北部の本庄、長楽の「地区計画」も具体的にうごきはじめた。コンサルタントの森崎さんの作った素案の検討会と、地区計画についての勉強会が週2度ずつもたれた。この勉強会の特長は、まちづくり協議会の若手グループ(20代後半〜30代)がリーダーシップをとっていることである。初めのころは誰もがしどろもどろの説明で、年長者の突っ込みに立ち往生することもあったが、よくそれを凌いで、いまは一定の信頼をかちえた。とはいうものの、勉強会(説明会)への出席者はまだ住民の一割に充たない。かれらはこれから資料を携えての個別訪問を計画している。「一朝一夕に事が成るとは誰もが思っていないが、自分が住み、家族の住むまちが再生するための種まきだ」と自営業のKさんはいった。

そんなある日、更地に虹が立った。まだまだ、復興へのきびしい日々を送らねばならない野田北部・鷹取に立った、みごとな虹であった。

[了]

◉初出誌
『月刊自治研』38(2)「鷹取の1年--たかとり発・まちの新生4 (特集 1年後の神戸)」(自治研中央推進委員会事務局発行,1996年2月)、「記憶のための連作『野田北部・鷹取の人びと』全14部」DVD BOX特典本『阪神大震災 KOBEから・まちの変幻』(野田北部を記録する会発行,2005年)
#文中に登場する名称・データ等は、初出当時の情況に基づいています。

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青池憲司

ドキュメンタリー映画監督。震災後、親交のあった長田区の野田北部・鷹取地区に入る。"野田北部を記録する会"を組織し5年間に渡りまちと住民の再生の日々を映像で記録。
「記憶のための連作『野田北部・鷹取の人びと』全14部」(1995年〜99年,山形国際ドキュメンタリー映画祭正式招待作品)を発表、国内外で上映。2002年「日本建築学会文化賞」受賞。

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