◉コラム
震災2年目へ
気がつけば1年が経っていた
神戸市長田区 ◉ 1996年1月31日
text by Tomoko
1996.11.2 up
気がつけば1年が経っていた
長田に再び1月17日がやってきた。あの情け容赦ない地震で一瞬で家や街を奪い去られてしまってから1年が過ぎてしまった。
私は今でも"割れる"音が嫌いだ。あの時私の自宅マンションの窓は衝撃のため全部割れた(というか、外れて落ちた)。その音が今でも耳から離れない。コップひとつ割れる音を聞いただけでしゃがみこんでしまう。連れの友人は、風かなんかでボランティア事務所のプレハブが揺れただけで、涙を浮かべ、震え上がる。普段はめったに泣かないのに。
むろん、私たちだけではない。この地震で大人も子どももそれぞれの心や体に"震災の傷"を負い、今でもそれを背負っている。その中で私はこの1年を死に物狂いで過ごし、ただ前を向くことしかできなかった。それは生きていくために。それは本当の意味での復興を果たすために。
そのためか私たちの95年はまたたく間に過ぎていった。ブルーシートで青く染まった神戸の街の中に、桜がほころんだ春。暑さで仮設住宅のお年寄りが倒れる事件もあった夏。寅さんが訪れた街が活気に沸いた秋。そして、また冬。世間やマスコミが作ったあらゆる感傷とは逆に、渦中の私たちは、なんだか気がつけば1年が経っていたという感じだった。
ここからが私たちの本当の真価が問われる
1996年1月17日の神戸には、再び多くの人々がこの街を訪れてきた。マスコミ各社、かつてのボランティア有志、家を失って街を離れざるえなかった人々……。更地には犠牲者を弔う花が供えられ、各地で合同慰霊祭が行われた。家や家族、何もかもを失ってしまった遺族の方も、神戸に来ることによってかえって多くのことを得ることができたボランティア達も、おのおのがおのおのの場所で祈り、語り合い、この地に思いをはせた。そんな日だった。
そんな"1年の節目"は嵐のように過ぎ去り、いま神戸には再び静寂が訪れている。マスコミもこれを境に神戸に来ることも少なくなり、そのため県外の人々は私たちの街を見ることも少なくなってしまう。神戸はこれからさらに忘れ去られていってしまうことに拍車がかかってしまうだろう。けれど、逆に言えばそこからが私たちの本当の真価が問われる時なのかもしれない。仮設住宅で孤独死におびえるおじいさん、おばあさんも地域のまちづくり計画案を行政と地元の人間が決定しないことには、いつまでもこの街に帰ってくることができないのだ。
さらに1年経った神戸は、一体どんな姿をしているのだろう。これからまた訪れる1月17日のあの日が、今回のようにあらゆる人が神戸を思い返すきっかけであり続けて欲しいと、心から願う。
[了]
◉初出誌
ミニコミ誌『学級日記』第3号(自主発行,1996年11月2日発行)掲載を再録。
#文中に登場する名称・データ等は、初出当時の情況に基づいています。