阪神・淡路大震災で失われたモノ、残されたモノ、生まれたモノ…そんな記憶を記録します。

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青池憲司コラム

鷹取での2日間(2)

神戸市長田区 ◉ 2007年5月26日
たかとり教会の献堂式 & 竣工式

text by 青池憲司

2007.6.17  up
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新しいたかとり教会の献堂式と祝賀会でなつかしい顔にたくさん会ったが、はじめての出会いもまたあった。そのひとり、伊達伸明さん。伊達さんは、「建築物ウクレレ化保存計画」家である。といっても何のことやらわかりませんよね。平たくいえばウクレレをつくる人なのだが、「ウクレレ製作者」といってしまうと、ちょっとイメージがちがう。まあ、それはそれとして、その伊達さんがなぜ、きょうのこの日にここにいて、わたしと話をしているのか。わたしが彼に紹介されたときも、彼が手にしていたのは一本のウクレレだった。これがただのウクレレではなかった。

それは、1927年にこの地につくられた教会の司祭館(阪神大震災で被災しながらもそのご10 年使用され、新施設建設にともない取り壊された)の部材をつかってつくられていたのだ。伊達さんは、「失われゆく建物の思い出をウクレレにして残そう」という活動(それが「建築物ウクレレ化保存計画」)を7年まえからつづけている造形作家で、これまでに40本以上の思い出ウクレレをつくっているという。縁あってたかとり教会司祭館の思いでをウクレレに残すことになり、きょうの良き日に合わせて完成させたそれを持参したとのことであった。

旧司祭館のどこの部分の建築材をつかってウクレレをつくったのだろう?伊達さんとパオちゃん(パオロ神父)、コー・プランの天川佳美さんとわたしでその場へ行ってみた。そこは新しい司祭館の階段で、階段の手すりには旧司祭館のそれがそっくりつかわれていた。震災をはさんだ5年間以上を旧司祭館ですごしたパオちゃんのなつがしがることひとしおであった。その階段手すりの特徴的な親柱の一部をウクレレのヘッドとネックにつかい、ボディに人びとが親しんだ部屋の部材などがつかわれ、サウンド・ホールのなかには玄関扉のキーが組みこまれた。パーツすべてが記憶の装置である。

中庭では祝賀会がはじまり、よろこびの酒宴となり、「たかとり教会司祭館ウクレレ」のお披露目もあった。わたしも宴の環にくわわり信州の升酒をいただいた。ここからのわたしは例によって酒浸りになる。例によってというのは、被災地KOBE(野田北部・鷹取ほか、友人知人の居住地)にはいつも用事があって出かけていくのだが、夜はどの地にあってもかならず酒漬かりになってしまうのだ。夜がまたくる、酒と悪友を連れて…。教会の祝宴は夕刻つつがなく閉会となった。しかし、それだけで満足することのない輩はいるもので、そのひとり、ご存知せっちゃん(野田北部まちづくり協議会/野田北ふるさとネットの事務局長)に、彼の巣窟である森下酒店の立ち呑みに連れていかれた。

そこにはいつものようにせっちゃんのお仲間が勢揃いしていた。森下酒店は連れていかれがいのある立ち呑みであり、ここの常連さんたちは酌み交わしがいのある呑んべえである。立ち呑みは関東ではついぞ見かけなくなった光景だが、関西ではいまだに廃れていない庶民の酒呑み場のひとつである。せっちゃんが、ここでのお仲間の人柄、呑み柄などのあれこれを野田北ふるさとネットのWebサイトに連載していて(サイトに入って、ふるさと日記→愉快な仲間たち、と進む)、その趣旨に、「森下酒店には、酒をこよなく愛するあらゆる業種の人々が集い、日々コミュニティを紡いでいる。_この日記は、それらの人間マンダラを私の視点で、記して行きたい」とある。『野田北版庶民酔伝』といった感触である。

わたしは、せっちゃんや、せっちゃんのお仲間の岡田さん、太田さんたちと、森下酒店の立ち呑みでまだのんでいる。酒の肴に、身の回りの出来事や世間のあれこれを取り上げて馬鹿話をする。話題がマジでも、けっして話し振りを四角四面にしない。交わすことばにストレートもあれば変化球もある。キャッチボール、いや、ことばの蹴鞠である。直球曲球の応酬でどこまで馬鹿噺(ばかっぱなし)のラリーをつづけられるか。これがけっこうアジな酒の肴になって、せっちゃん流にいえば、酒呑み(男たち)のコミュニティができあがる。近年は女性の酒呑みも増えたが、この店で顔を見るのはまだまだ稀である。

そろそろ時間だ、とせっちゃんから声がかかり、新長田の焼肉屋へ向かった。台湾からのお客さん、廖嘉展新故郷文教基金会理事長ご一行の歓迎会と交流会である。野田北部の人たち、新施設を設計した坂茂建築設計のスタッフ、ペーパードームの台湾移築を支援した建築家やまちづくりプランナー、市と県の行政マンなど、この円居(まどい)もまた多士済々である。なんでここにいるんだろう、という面持ちでウクレレの伊達伸明さんもいる。そういうわたしもおなじような心持ちである。こういう融通無碍な雰囲気が野田北部や鷹取の町場のいいところで、なにかの拍子に縁の生じた人なら、そこにいるのがあたりまえであろうとたまたまであろうと、みんなでいっしょになって、わいわいがやがややってしまおう、という仕切りである。そんなこの地域の特徴は、阪神大震災後の復興まちづくりで培われてきたものではなかろうか。

台湾南投縣埔里鎮桃米里で移築工事が進んでいるペーパードームが完成したら、9月21日の落成式にはみんなで出かけようと交流会はもりあがった。それがはねて、野田北部へもどると案の定、もう一軒行こう、の合唱である。なにが案の定なものか、おまえ(わたし)がそそのかしたのではないのか。かもしれない。ま、いずれにしても、身体虚弱意志薄弱のわたしは、だれかに引っぱられ押し上げられして居酒屋の階段をのぼった。いやはや。店内に入ると、ガーン!なんとそこには、かんちゃん(神田裕神父)をはじめとして、信徒さんたち、日比野純一さん(FMわぃわぃ代表)、吉富志津代さん(多言語センターFACIL代表)、たかとり教会の新施設を施工した清水建設の人たちなど教会・TCC(たかとりコミュニティセンター)組がいたのだ。新施設の感想をいえば、わたしは、この建築物にいわゆる教会風の美がないところが気に入っている。一見するかぎりでは、この建屋が何屋さんかわからないことも、気に入っている。中の中どころの会社の事務所?モダーンなモノつくりの作業所?地域の人たちはいまのところなにがなし違和感をもっているようだが、器(建物)の印象がなんであれ、ちょ っと入ってみよかと、人の気分を誘うかどうか、それはひとえに、器物のなかみの諸兄諸姉の器量にかかっているであろう。かんちゃんは「ここは会員制のクラブではなく大衆食堂だ」といった。その言やよし。

わたしが、野田北部・鷹取で呑んでいて、ふだんと決定的にちがうのは終電を気にしなくてよいことである。わたしは、野田北ゲストハウス(野田北ふるさとネット事務所2階の住居部分)を鷹取での定宿にさせてもらっている。呑み仲間の大方は地元ないし近隣地域の人であるから歩いてかえることができる。時間を制限するものがないから、ときに、もう一軒行こう、が連発されてしまう。この夜もそのパターンで、行き着いたところはカラオケであった。ふだん、わたしは、みんながカラオケへといいだすと、そそくさとかえってしまうのだが、この夜はなぜかわからないがなぜかちがって、同行した。人がうたう歌を呑みながら聴いているのもいいものだ。わたしは、自分では一言半句もうたわないくせにリクエスト魔で、同席者にあれうたってこれうたってと強要する。かんちゃんに『五番街のマリー』を、ウクレレの伊達さん(彼も今夜はゲストハウスに泊る)に『悲しい色やね』を所望した。ふたりはこころよくうたってくれた。ともに、震災直後の鷹取救援基地で焚火をかこみながら、かんちゃんやみんなでうたった歌である。

[了]

◉初出誌
「阪神大震災ドキュメンタリーヴィデオコレクション─野田北部を記録する会WEBサイト」サイト内
「連載コラム『Circuit 07』第18回&第19回」2007年6月17日&23日掲載を再録。
#文中に登場する名称・データ等は、初出当時の情況に基づいています。

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青池憲司

ドキュメンタリー映画監督。震災後、親交のあった長田区の野田北部・鷹取地区に入る。"野田北部を記録する会"を組織し5年間に渡りまちと住民の再生の日々を映像で記録。
「記憶のための連作『野田北部・鷹取の人びと』全14部」(1995年〜99年,山形国際ドキュメンタリー映画祭正式招待作品)を発表、国内外で上映。2002年「日本建築学会文化賞」受賞。

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