◉震災発レポート
震災から5年、2つの慰霊の場で ❷
震災復興住宅にて
神戸市中央区 HAT神戸脇の浜 ◉ 2000年1月17日
HAT神戸脇の浜復興住宅集会所・震災慰霊法要
text by kin
2000.1.31 up
復興住宅で初めての慰霊法要
神戸市長田区の御菅地区合同慰霊法要の後、ボランティア仲間で僧侶である藤井師とほか数名の僧侶と一緒に、中央区の湾岸地域にあるHAT神戸脇の浜の震災復興公営住宅へと向かった。この東部新都心に建設されたHAT神戸への入居は1998年より始まったものの、仮設住宅入居者からの優先枠が設けられた抽選によって入居世帯が決定されたために、団地の住民も必然的に要援護者である高齢者や単身世帯が多くなっていた。そして仮設入居時と同様にリセットされたコミュニティを再構築することには困難も多く、孤独死など新たな問題も表出してくることとなる。この脇の浜の復興住宅は阪神電鉄春日野道駅にも近く、周辺には繁華街もあるのだが、団地との境界に阪神高速や国道2号線が走るために、高齢者にとっては心の溝のように遠く感じられる場所であった。
今回、そのHAT神戸脇の浜の集会所で震災の慰霊法要が初めて催される。日頃そこに入って訪問やお茶会などの活動をしているボランティアさんが中心となって、新しい住民の方々に参列を呼びかけて実現したものだ。藤井さんや私たちは、旧知であったそのボランティアからの要請を受けて、今回お手伝いをする運びとなった。当初は2名の僧侶で行く予定であったが、御蔵での法要の後の流れで急遽、他にも2名が加わることとなり、計4名の僧侶での訪問となった。
写真を撮って欲しい、その意味は
慰霊法要の会場となる集会所は、高層マンション型の復興住宅の1階にある。道路に面してガラス張りになっており、ちょうど学校の教室くらいの広さだろうか。仮設住宅のふれあいセンターのイメージとぴったり重なる感じがする。この脇の浜での入居が始まって以来初めての慰霊法要ということもあるのか、こんな小さな会場での式であったが、マスコミの取材も何組か訪れていた。
式に参列されている住民の方は、高齢の方ばかりだった。その多くが仮設住宅から引っ越してこられたばかりの方々だという。まだ友人知人などが少ないのか、参列者の方々の間ではあまり親しげな会話も見られない。式の様子の記録を頼まれていた私は、主催のボランティアの方に挨拶に行った。すると要望として、式の様子も撮って欲しいのだが、ここに来ている方たちは自分の写真を持っていない人ばかりなので、お顔が写った写真を多く撮って欲しいとのこと。
写真が無いという話は、全壊や全焼など被災して失われたためという事でよく聞く話だった。ほかにも何度も引っ越しを繰り返してきたことや、高齢であるがためにそもそも写真を撮らないということもあるだろうし、持ってはいてもまた新たな仲間同士で写ったものが欲しいということもあるだろう。また新たに写真を撮ることによっての話のきっかけにもなるのかもしれない。会場を見渡してみてお話を聞いてみると、"たかが写真"なのだがそれも重要なツールの一つとなり得ることが想像できた。
仮設の懐かしさ、そして復興住宅の寂しさと不安
午後1時半、熊本県天草の荒木師、藤井師をはじめ4名の僧侶による読経で、震災慰霊法要が執り行われた。式は滞りなく進み、滋賀県マキノ町の弘海老師より法話を戴く。御蔵での法要に引き続いて担当されたため、都合同じ話を2回聞くこととなった。しかしながら場の空気もそうであったことや話し方もさすがに上手なため、2回目なのにまたジーンとして聞いてしまった。
式も終了し、僧侶の方を囲んでの団らんの時となった。20人ほどの方が残って輪に加わる。話がなんとなく進まないので、荒木師からみなさんに話しかけていった。雲仙・普賢岳噴火災害のあった島原の対岸にある熊本、天草から来ていることや、震災以来しばしば神戸に顔を出していることなど、荒木師の自己紹介から進んでいった。藤井師も長田で識字教室を行っていることなど、優しい口調で丁寧に話している。いつもはボランティア仲間の友人として接しているが、さすが堂々とした僧侶としてのオーラすら感じる語りである。やはり僧侶の方々は、普段から多くの檀家さんなどと接していることもあり、こうした場での話のコツというものをそれぞれが持っている。そうした同じ空間にいるだけでも癒され心も開いてくる。
だんだんとお坊さんの話に引き込まれていったところで、荒木師が一人一人に「復興住宅に移ってきて、どんな生活をされていますか」問いかけ尋ねていった。すると少しずつ答えが返ってくるようになり、皆さんも口を開いて話をし始めるが、誰もが同様な不安を口にしている。やはり仮設から移ってきた方がほとんどのようである。
被災した地元から仮設住宅に引っ越したときに最初の人のつながりが途切れ、その仮設でようやく新たな友だちが出来たと思ったら、こうして復興住宅に越して来たことで、またそのつながりが途切れてしまった。
「寂しい」とは、何人もの方が異口同音におっしゃる。そしてさらには、
今思えば、あれだけ不便だった仮設住宅の生活でも、今は懐かしさすら感じる。
とのことだった。
隣家の生活音が筒抜けとなっていた薄い鉄板の壁や、気軽にお隣さんに声を掛けられる距離感が良かった。
あの時は生活し辛いと、問題点ともなっていたようなことまでも、そのように話されていた方もいた。仮設と比べ、復興住宅の扉は厚く重く、家の中に入ってしまったらもう外からは何もわからない。こうしたコンクリートの高層住宅での生活は、本当に年寄りにはきついという。
新しい生活への出発を感じる
仮設ではボランティアがいろいろなイベントやお茶会など開いてくれて愉しかった。
との声も次々に挙がる。私は仮設訪問や復興住宅訪問などといった種類のボランティア活動はほとんど行ったことがなかったので、こういう場でこのような話を直接伺うことが出来たことは新鮮でもあった。しかし同時に、やはり今まで新聞で読んだり聞いたりしてきたことは本当なのだなとも実感させられることとなった。
午後3時半、お茶会も終了しタクシーでふたたび御蔵に戻った。藤井師、荒木師と一緒の車内では、両氏から法要中の話をいろいろと聞くことができた。例えば荒木師は先ほどまでのお茶会を振り返り、
話し始めて10分くらいで、ここに集まっている人はどんな人たちで、どんなことに悩んでいるのか、もうだいたい掴んだ。だからその線で問いかけをしたら、やはり予想通りの答えが返ってきた。
と話していた。
今回参列された方々は、この慰霊法要の場に参加して初めて顔を合わせ話をしたという方も少なくなかったという。友だちも少なく寂しいなどと話されていただけに、こうした場が新たな地で新しい生活へ出発するひとつのきっかけとなっていたことは、お手伝いした者としても喜ばしい限りだった。
震災から5年が経過して、やっと被災した街の区画整理が動き出した。仮設住宅も解消した。そして復興住宅に住民の移行が進んだが、仮設での問題まで一緒に復興住宅に移行してしまったようだった。「震災」はまだ終わっていない。しかし今回2つの慰霊法要式に参列し、2つの新しい出発を直接感じることができた。
[了]
◉初出誌
2000年1月末日執筆の報告文を加筆し再録。
#文中に登場する名称・データ等は、初出当時の情況に基づいています。