阪神・淡路大震災で失われたモノ、残されたモノ、生まれたモノ…そんな記憶を記録します。

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◉震災発レポート

三宅島からの全島避難
離散島民を都内の"地域"が支えた

東京都八王子市 ◉ 2000年9月10日
第1回三宅島と多摩をむすぶ会世話人会

text by kin

2000.9.14  up
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東京港竹芝桟橋から船でおよそ6時間の場所に伊豆七島の1つ三宅島がある。2000年6月、その最高峰雄山の火山活動が20年ぶりに始まった。そして8月29日、大噴火とともに火砕流も発生する。それらを受け、9月1日に東京都三宅村は全島避難を決定した。翌日から避難が開始しされ、わずか3日後の9月4日月曜日、三宅島全島民の島外避難が完了した。これで工事や防災、行政関係者などのホテルシップ利用者及び島内残留者266名(9月12日時点)を除いて、およそ3千人あまりもの島民が区内や三多摩を中心にした都内各所に、散逸して避難することとなった。

そうしたこの数日の間、島民と受け入れ側の行政や支援者、それぞれの地元地域は慌ただしい毎日を送ることとなった。どんなことが行われていたのか、地域やネットの上で垣間見た、その一端を追ってみる。

三宅島災害対策メーリングリスト、有珠山ネット、島魂

6月下旬の最初の噴火後、ネット上でメールによる同時配信システム「三宅島災害対策メーリングリスト(三宅島ML)」が開設された。運営の中心となっていたのは、同年4月に発生した北海道有珠山噴火災害の被災者やその支援者による「有珠山ネット」だった。

有珠山ネットのメンバーは、三宅島MLを通して噴火災害の経験を還元するとともにMLやWEBを通じて遠隔地から支援をつなげた。そして三宅島民有志は「島魂」を結成し、そのWEBサイト上で情報共有を図る。

三宅島MLには火山学者、マスコミ、NPO、市民などの多彩なメンバーが参加していた。投稿数は7月中旬以降の火山活動終熄とともに一端はが減っていたが、再び火山活動の活発化した8月中旬からは最大時1日150通以上もの情報が飛び交う熱い空間となっていた。

それぞれの避難先で地域がサポート

島民が次々と各地の都営住宅に避難していた中、機敏な動きを見せていたのは地域に根差して活動をしていた地元の福祉やまちづくり関係のNPOや社会福祉協議会、自治会であった。今回避難した島民が最初に多く移ってきたのが、北区(赤羽周辺)や、多摩ニュータウン(八王子市、多摩市、稲城市)、そして小、中、高校生が集団で多く入ったあきる野市にある秋川高校である。こうした普通の住宅地域に、突如として地域コミュニティをばらばらに離された状態の三宅島島民が避難してきたのだ。全く土地勘も知人もいない状態にある島民たちをサポートしようと動いた地域のNPOや自治会は、まず引っ越してきた島民を訪問し、付近の地図を持っていったり情報を届けたり、生活用品の支援や相談に乗るといった活動から始めていった。

そうした活動の中で問題となっていたのは、避難者名簿がないために避難者がどこに住んでいるかなど、その実態がなかなかつかめないことだった。プライバシーを理由に行政が公開しないため、支援するにもできない状態だった。島民もそれぞれが新天地で孤立した状態にあり、友人知人同士でも連絡できずにとても困っていたが、逆にそうした避難者名簿が悪用されることも想定されるとなると、その判断のバランスはとても難しいことだった。

八王子市の動向例

避難者を受け入れる地元自治体の対応も、それぞれで異なっていたようだ。都の方で施策をいろいろとやっているので、特に区や市で独自には動くつもりはないという消極的な自治体もある一方で、あきる野市や北区、台東区、港区などは避難者が多かったこともあり行政や地域の支援も当初より活発だった。多摩地域の八王子市なども積極的に動いていた。

三宅島MLでの報告によると、市役所内の全体でも支援活動に対してテンションが高かったという。市独自の物資給付をいち早く行ったり、市職員の間でも見舞金カンパを募集していた。はじめは個別訪問を行っての入居確認と各種案内から始めたが、それが最も苦労した点だったという。福祉課のみならずいろいろな職員で手分けをしたが、市の入手した名簿には団地の申込者しか書かれていなかったため、実際に訪問しなければどんな家族構成なのかも判らなかった。加えて市保健婦も避難世帯全戸を訪問する予定だ。

今は入居者の電話工事に時間が掛かっており、避難した島民同士でも連絡がとりにくい状態にある。そのため市はテレホンカードを配布したが、そもそも団地の中に公衆電話が少ないので不便さは否めないと市も苦慮している。そして島民同士が集まったりできるように南大沢駅近くの南大沢保健福祉センター内に三宅住民のための懇談室を設置した。これからここを島民の情報交換の場にしていきたいという。

多摩未来の議論

避難者の多かった多摩ニュータウンは、元々NPOの事務所やMLがいくつもあったような市民による地域活動の盛んな所であった。そうした一つ「多摩・未来」によるML「多摩未来ML」があった。多摩未来MLとは、例えばこれまでは多摩そごう閉店後の跡地利用についてや里山の保全活動などについての議論がなされてきた。そうした下地もあり三宅支援に関しても当初より結構活発で、このところML内には1日30〜40通もの投稿メールが飛び交っていた。

ベビーカーが欲しいという三宅避難住民の方の声を受け、八王子市のニュータウン地区の保育園全部でベビーカー提供者リスト作った。
八王子市が設けた南大沢保健福祉センター内の懇談室では、特例で提供して貰った東京MXテレビの三宅島情報ビデオを放映。また日本IBMとコンパックから提供してもらったパソコンを設置してネット環境を整え、関係するホームページを閲覧できるようにする予定。

他にもいくつかのエピソードが紹介されている。

先日の日曜日に団地のみなさんで敷地内の草むしり行ったが、一緒に参加された島からの方たちが随分手慣れているのを見て、とても助かったと自治会の方たちも喜んだ。また団地内ですれ違ったり談笑する避難島民の方たちの姿からは、なぜかなつかしいものを感じたりした。皆さんが来られたことで生まれるコミュニケーションが、団地を活性させているような気がする。

『三宅島災害対策ニュース』を支援者向けに配信

そんな時、東京の災害NPO、NGOなど130数団体が加盟する災害ボランティアネットワークのスタッフは、今後どのように支援に動くかなどで毎日その内部調整に追われていた。3年前に阪神・淡路大震災をきっかけにネットワークが組織されたものの、本格的な災害支援に直面したのはこれが初めて。ネットワークを組む加盟傘下の関心のある個々人や各団体はそれぞれ独自に動いていたものの、当初はネットワークの中心となるべき事務局は情報収集・発信能力が弱くネットとしては十分に機能していたとは言い難かった。体制も整っておらず仕方のない面も大きい。

全島避難の初動期間のおよそ1ヶ月の間だけ、私はボランティアネットワーク加盟団体である災害情報企業を手伝う形で、ネット加盟団体に向けたBtoB的な『三宅島災害対策ニュース』の発行に携わった。急遽全島避難となり事態が動いたため、さまざまな自治体、公的機関、公共機関、企業、報道、NPOなどから大量の緊急支援情報がリリースされてはいたが、まだそれらをまとめて整理し有効に利用できる状況にはなかった。そのためボランティアネットワークとしてのきちんとした支援態勢が整うまでの当分の間、FAXとメールでの情報配信を行った。三宅島ML、多摩未来ML、島魂BBSを中心に情報収集し、ソースを各行政の公式情報などで確認した。

多摩地域で市民が動いた

2000年9月10日日曜日、八王子市内の多摩ニュータウンの中にある八王子市立長池小学校において「第1回 三宅島と多摩をむすぶ会 世話人会」開催された。この「三宅島と多摩をむすぶ会」は多摩ニュータウンを中心とした多摩地区に多くの三宅島住民が避難してきたことから、多摩未来MLや三宅島MLの議論の中で地域住民とNPOが呼びかける形で短期間で結成が呼びかけられたものだ。私は三宅島MLでこの開催を知らされ、『支援ニュース』編集の立場として参加することとなった。

京王堀之内駅で一緒に行く方と待ち合わせをする。多摩ニュータウンの地にきちんと降り立つのは初めてである。ここは新宿から3、40分ほどにある丘陵地帯を切り開いた巨大ニュータウンだ。どこまでも家並みが続き、また丘陵なのでアップダウンのきつい街である。周囲には多くの大学も集まっている。神戸で仮設住宅の多く建設された西神地域は「多摩に似ている」などとよく言われていたが、こうした街の諸相を鑑みると、逆に多摩は神戸の西神や学園都市が合わさったような印象でどこか既視感を覚えてしまう。一方で、ニュータウンに避難してきた被災者を地元の地域NPOが支援する姿も、神戸の西神や須磨、鹿の子台などでも見られた姿であった。

会場の長池小学校は、最近できたような新しくヨーロピアンな雰囲気の漂うモダンな校舎だった。その体育館の一室は教室くらいの広さがあり、そこが「NPO FUSION長池」というNPO法人の事務所になっていた。ここは一時的にFUSION長池が間借りしているそうなのだが、こんな現役の学校とNPOが合体している所もあるのだと大いに驚かされた。古い街のような先入観があったが、行動は先進的なスタイルなのだった。会議が行われるこの事務所には、しだいに人が集まって来た。

第1回三宅島と多摩をむすぶ会世話人会

集まったのは、呼びかけ人である東京都立大学の生田茂教授や大妻女子大学干川剛史助教授などの大学の先生方を初め、実に多彩な方々であった。日本工学院八王子専門学校や八王子市立柏木小学校の先生方、FUSION長池やたまNPOセンターといった地域NPOや川崎・災害ボランティアネットなど他のNPO、多摩市役所(自治労多摩市職員組合)の方、東京MXテレビやNHKの地域ニュース担当のローカル系マスコミ人、多摩テレビやミニコミ『もしもし新聞』などの地域ミニメディア関係者、三宅島未就学児の自主保育サークル「どるふぃん」や学生や多摩住民、三宅島島民自身による支援組織「島魂」の代表メンバーといった人たちである。一通りの挨拶を済ませ、各地の現状報告から会議は始まった。

現在、FUSION長池の活動地域内の各団地へは180世帯・590人が入居している。今日の昼にFUSION長池は、京王線堀之内駅前のライブ長池街づくり館という所で三宅島住民の相談会を行ったという。入居したばかりなので取りあえずは余り困っていないが、これが長びくようなことになればわからないとのこと。参加者は少なかったが、直接住民の声を聞くことが出来たのは収穫だったという。多摩ニュ−タウン南大沢団地三丁目でも15世帯が避難し、専門学校講師の先生が相談・交流会を行っていた。

現状と課題が次々と挙がっていた。受け入れ側として今の段階では、避難した島民の名簿がないので、相談会に来ないとわからないこともある。自治会は家庭用品を用意できる。島の最新情報も欲しい。「ベビーカーが欲しい」というような、例えばそういうような物品交換の場も作ることができればいい。壁新聞もいいかもしれない、等々……。

今はそれぞれの自治会でバラバラに支援活動で動いている状態にある。今後は情報のやりとりなど自治会、行政、NPOの間でどのような連携を取っていけるかが課題だろう。

柏木小学校の先生:三宅住民はみな「情報」を欲しがっているが、いったいどこから手に入れたらいいのかわからない状態。現在、転入してきた三宅の児童を通して、親にMLやネットで手に入れた情報を手渡している。壁新聞という話があったが、島魂などのホームページの情報を拡大コピーして駅やスーパーの掲示板に貼ったりしてはどうだろう? 問題はその人手、パソコンがないこと。
三宅島民の島魂メンバー:情報はあるがそれぞれのサイト掲示板などに拡散している。しかし移住してきた我々にはパソコンの環境がない。
生田先生:閲覧や作業を行うパソコンなどの環境は大学などで用意ができる。地元を中心に動ける人は動いて欲しい。現在は行政同士の連携が取れていないので取れるよにしたい。自治体とわれわれNPOとの間で信頼関係をどのようにとっていくか。
全島避難指示以前に避難した自主避難者の情報は、NPO、自治体共に現在のところ全くない。稲城は社協、NPOともに現在上手く連携がとれている。
秋川高校にいる避難された先生方の労働環境、部屋の環境がとても悪く困っている。
電話、NHK、上下水道、郵便などのライフライン情報や行政の情報が分からない。減免などもいろいろとありネット上でもまとめられているが、行政は申請主義なので、申請しないとサービスを享受できない。その情報が渡るようにしたい。いかにうまくいくようにできるか。

現在考えられる「情報網」のルートとしては、次のようなものが考えられるだろう。最初に生田先生、干川先生の所に支援情報が集まってくる。それを「むすぶ会」へと作業提案し、同時に「小学校」「もしもし新聞」「自治会」などに伝える。小学校からは校内掲示板や児童へと伝えられる。自治会、自治会長や役員さんに行った情報は、避難島民やスーパーの掲示板コーナーなどへと行く。逆に避難島民からの要望は、このルートの逆ルートで行う。情報の集まってくる先生方と自治会との間に太いパイプを作りたい。また一連の作業の過程の中では、パソコン環境の整備やプリンター、FAXなどが必要となってくるだろう。ほかにも自転車なども必要だろうか。

避難島民からの要望をどのように集め、受けるか。行政、NPO共にルートを作る必要があるだろう。この多摩、南大沢地区は学生街なので、夏休みが終わって学生が戻ってきてから動きが出てくるだろうか。動きが出てくるように呼びかけることも必要だろう。

とても有意義な話し合いで、支援の現在の最前線の現場の姿をこの目で感じることができた。三宅島MLでお名前だけは知っていたという方たちとも、実際に多くの方と挨拶を交わすことができ、災害ネット向けの『三宅島災害対策ニュース』の配信申込もたくさん受けることが出来た。

[了]

追記・その後

2000年9月8日、三宅島社会福祉協議会、東京ボランティア・市民活動センター、東京災害ボランティアネットワーク、東京ハンディキャブ連絡会で「三宅島災害・東京ボランティア支援センター」を立ち上げた。島民向け生活情報誌『みやけの風』の発行、三宅島島民電話帳の作成・配布、三宅島島民連絡会会議や三宅島島民ふれあい集会の開催など、島民と行政の間にたったボランティアによる各種の支援活動を行った。帰島が始まった2005年2月からは、島内で引っ越しや降灰除去作業の「帰島支援ボランティア活動」を開始。島内に高齢者支援としてコミュニティスペース『みやけじま<風の家>』を開設した。

三宅島と多摩をむすぶ会は、情報誌『アカコッコ—三宅・多摩だより—』(2000年9月22日〜2004年2月8日)の発行・配布をはじめ、「ベビーカーバンク」のベビーカーのお届け、三宅島自主育児サークル「どるふぃん」の支援など活発に活動した。

2005年2月1日,三宅村は約4年半ぶりに避難指示を解除し,本格帰島が始まった。

◉初出誌
2000年9月14日の報告を加筆再録
#文中に登場する名称・データ等は、初出当時の情況に基づいています。

◉データ
第1回三宅島と多摩をむすぶ会世話人会
開催日:2000年9月10日 16:20〜18:20
場所:東京都八王子市立長池小学校内「NPO FUSION長池」事務所

「三宅島災害対策ニュース」
発行:(株)レスキューナウ・ドット・ネット
協力:東京災害ボランティアネットワーク
発行期間:2000年9月7日〜10月中旬

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