阪神・淡路大震災で失われたモノ、残されたモノ、生まれたモノ…そんな記憶を記録します。

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青池憲司コラム

コミュニティに力あり
Memorial Conference in Kobe ix
〜阪神・淡路大震災の教訓を
世界と21世紀に発信する会〜

神戸市中央区 ◉ 2004年1月24日
阪神・淡路大震災記念 人と防災未来センター

text by 青池憲司

2004.2.1  up
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1月24日に、神戸市の<人と防災未来センター>で、「Memorial Conference in Kobe ix 〜阪神・淡路大震災の教訓を世界と21世紀に発信する会〜」という催しがありました(同組織委員会・京都大学防災研究所・人と防災未来センターの共催)。ことしで9回目になるこの催しの趣旨は、「『阪神・淡路大震災』を統一キーワードとして、一般市民、被災者、ボランティア、NGO、NPO、行政関係者、医療関係者、研究者、技術者、企業人等が分野を越えて一堂に集い、学術面のみにとどまらず、この災害からそれぞれが学んだことを話し合います。そして、それぞれが、お互いに理解が足りないところを補うことを目的とし『安全/安心でこころ豊かな社会づくり』を目指しております」というものです。(当日会場で配布されたパンフレットより)。

その「メモリアル・コンファレンス」のことしのメインテーマは、「わたしたちの復興まちづくり」でした。午前の部では、地域住民やまちづくり関係者、行政関係者など18人の証言が、本人あるいは代読で発表されました。わたしは、そのうち数人の証言をききましたが、小学6年生吉村くんの「ひまわりの花に励まされた」のひとことが印象に残りました。6年生といえば12歳、被災時は3歳です。その吉村くんが、ボランティアが蒔いた背たけの低いひまわりが咲いた夏を記憶していて、花に励まされたといいます。老若男女、震災の集団的記憶のひとつが花であることをうかがわせる証言です。野田北部でも更地のかたい土をおこして、震災の年の5月にひまわりの種蒔きをしたことを思いだしました。あの種蒔きは「希望」の種蒔きでもあったのです。(記憶のための連作『野田北部・鷹取の人びと』第3部に収録)。

午後の部では、おなじテーマのパネル・ディスカッションがありました。コーディネーターは小林郁雄さん(阪神大震災復興市民まちづくり支援ネットワーク)。パネリストは、清水光久さん(真野地区まちづくり推進会事務局長)、佐藤厚子さん(六甲道駅北地区まちづくり連合協議会公園部会座長)、倉本佳世子さん(富島を考える会《東町まちづくりの会》代表)、宮定章さん(阪神・淡路大震災まち支援グループ/まち・コミュニケーション代表)、坂和章平さん(元・芦屋中央地区まちづくり協議会顧問/弁護士)、中川啓子さん(元・深江地区・新在家地区まちづくり協議会コンサルタント/灘区地域活動支援コーディネーター)という人たちです。住民としてまちづくりに携わる清水さん、佐藤さん、倉本さん。地域密着型でまちづくりを支援する宮定さん。弁護士という専門分野から復興まちづくりに関わった坂和さん。コンサルタントとして地域活動に関わる中川さん。以下、パネル・ディスカッションでの諸氏の発言を引用しながらの傍聴記です。

2005年には、住民運動によるまちづくりをはじめてから40年になる真野地区。清水さんは、震災後いちばんよかったこととして、被災者を地区外へ出さなかったことを挙げました。地元の中学校の校庭に105戸の仮設住宅を建てさせたのです。仮設住宅といえば、自分のまちから遠く離れ、それまでの近所づきあい(人間関係)を捨てての入居があたりまえでした。そんな状況のなかで、家を失った被災者を地区外に出さないという活動は生半可なことではなかったろうと思います。地区内に仮設住宅をと望んだのは、真野地区だけではなかったでしょう。それが実現した地区はいくつあったでしょうか。いま、わたしがこのことを書き連ねるのは、地区内に仮設住宅を獲得したことを真野の手柄だといいたいのではなく、真野の要求こそが普遍的なものであり、その活動は明日の被災地への教訓になる、と考えるからです。その清水さんが地域コミュニティの重要さを説き、「区画整理が終ったら、まち協(まちづくり協議会)解散というのではダメだ」といいました。そのことばにわが意をつよくしました。まちづくり協議会は、復興まちづくりから日常のまちづくりへの展開の核になるべきだ、とわたしは考えています。

一方、元・芦屋中央地区まちづくり協議会顧問の坂和弁護士は、「復興まちづくりの役割を終えた協議会は解散してもいいのではないか」と発言しました。復興から日常のまちづくりへと、まちづくり協議会がそのまま移行するのは、人・仕組みともになかなかむつかしい、ということのようです。活動歴40年の真野地区はいうまでもなく、野田北部も震前から震後の今日まで活動を持続しています。震災復興のためにつくられた、芦屋中央地区まちづくり協議会は解散しました。継続は力なり、といいますが、活動体は役割を終えたら解散する、というのもひとつの行き方です。出処進退としてもなかなか魅力的です。清水さんの継続論に賛意を表したわたしが、その対極にあるような坂和論にも関心を示すのは無節操といわれるかもしれませんが、どちらの行き方にも関心をもっています。住民が主体的に選択したことであるならば、それぞれに理があるわけで、それぞれのコミュニティの事情と力量が、それをきめるのだと思います。

六甲道駅北地区まちづくり連合協議会の佐藤さんの話は、「自分たちのまちを自分たちで設計している」というたいへん刺激的なことばではじまりました。同地区では、連合協議会を5部会に分け、住民はそれぞれの部会に参加します。まちのグランドデザインを他人まかせにしないで自分たちで提案していく、そのためには必要な知識や法律を住民自身で勉強しなくてはなりません。「市民は勉強することが大事」と佐藤さんはいいます。坂和弁護士も、まちづくりにおいて、住民が法律を自分のものにする重要さを強調していました。学習→プランづくりの過程で、住民はどんどん力をつけていったといいます。佐藤さんが座長を務める公園部会には、国土交通省が地区内の公園プランづくりを要請してきたそうです。わたしはKOBEへいくと、六甲道駅を鷹取駅の次くらいに利用していますが、その駅の北側でこのようなまちづくりが進んでいることは知りませんでした。こんどゆっくり訪ねてみたいと思います。

復興の歩みはいうまでもなく一様ではありません。鷹取東地区では区画整理はすでに終っています。淡路島北淡町富島地区では、仮換地指定がいま83%の状態です。早ければよい、遅いのは・・・・という問題ではありません。尼崎市に住みながら、生地の富島地区で活動する倉本さんは、行政の復興への取り組みが都市部と田舎ではちがうといいます。住民の生活環境を無視した机上の線引きによる区画整理(どこの区画整理でも概ねそうなんですが)で、富島では、「網道」とよばれる、先人たちの知恵でつくられた路地(それは、仕事へ通う道であり、こどもたちの遊びの場であり、災害時の避難路であった)などを拡幅するために、家屋は取り壊され、人は去っていく状態がとまらないということです。しかし、昔ながらのまちのよさを見直すまちづくりプランによる、住民まちづくりもねばりづよく進められているようです。

住民さんが元の三分の一しか戻っていない、長田区御蔵地区で支援活動をしている<まち・コミュニケーション>の宮定さんは、住民と支援グループの協働のかたちにこだわっていました。ニーズの合致とすれちがい、提案のタイミングひとつで通ったり通らなかったりのプランなど、住民さんとのつきあいは試行錯誤の日々だといいます。これはまあ永遠の課題でしょう。宮定さんの発言で、わたしが注目したのは、まちづくり協議会の会議の場と民主主義についての問題提起でした。住民さんたちの会合(住民集会)で、議事はどのように進行していくのか、物事は民主的にきめられているのか。民主的にきめるとはどういうことなのか。記憶のための連作『野田北部・鷹取の人びと』(全14部)で、住民の会合の場にこだわってきたわたしは、かつて、「まちづくり協議会には『震後民主主義の芽』がある」といったことがあります。震後民主主義とは戦後民主主義のもじりです。戦後民主主義は上から(国から)降りてきましたが、震後民主主義は下から(地域から)民意をあげていきます。地域共同社会という小さな単位から復興をめざした住民集会の場は、意見・反意見・異見を自律的に発表することを保証した民主的な場であった、とわたしは考えています。そのうえで、「まちづくり協議会の会議の場は民主的か」と問いつづける宮定さんに、わたしは共感します。

まちづくり協議会を担う中心世代は、わたしの知る協議会でみるかぎり40代後半から60代ですが、20代30代の若手がいないわけではありません。一方、支援グループは20代が多くを占めています。最近は若いコンサルタントもふえてきました。震災2年後から、住民まちづくり団体のコンサルタントとして地域に関わった中川啓子さんは、先の宮定さんと同じくぎりぎりの20代。その経験をもとにして、いまはフリーランスで、地域活動やイベントのコーディネートをしているそうです。震後9年がすぎて、まちづくり活動や商店街活動に若いエネルギーが要請されています。世代交代も必要とされています。地域の若者と若手専門家、ボランティアが手を携えてコミュニティづくりへとむかう。「復興まちづくりから日常のまちづくりへ」という課題は、ひとつには、かれら、ヤンガージェネレーションの在りようにかかっているのかもしれません。

毎年1月17日をはさんでのKOBE滞在で、感じることはさまざまですが、ことしは「コミュニティに力あり」ということをつよく印象づけられました。滞在中、野田北部まちづくり協議会をはじめ、いくつかの協議会やNGO/NPOグループ、専門家の人たちと会って話をきき、三つのシンポジウムを傍聴しました。そうしたことから、上記のことばが、わたしのなかにうかんできたのですが、前回報告した神戸市長田区の<御蔵通5・6・7丁目自治会集会所>づくりの、住民を中心としたねばりづよい活動も、「コミュニティに力あり」を感じた具体的な事例のひとつでした。

[了]

◉初出誌
「阪神大震災ドキュメンタリーヴィデオコレクション─野田北部を記録する会WEBサイト」サイト内
「連載コラム『眼の記憶』第8回」2004年2月1日掲載を再録。
#文中に登場する名称・データ等は、初出当時の情況に基づいています。

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青池憲司

ドキュメンタリー映画監督。震災後、親交のあった長田区の野田北部・鷹取地区に入る。"野田北部を記録する会"を組織し5年間に渡りまちと住民の再生の日々を映像で記録。
「記憶のための連作『野田北部・鷹取の人びと』全14部」(1995年〜99年,山形国際ドキュメンタリー映画祭正式招待作品)を発表、国内外で上映。2002年「日本建築学会文化賞」受賞。

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