宮城県石巻市(いしのまきし)
- 石巻市役所 (宮城県石巻市 2012年2月)
- JR石巻駅 (宮城県石巻市 2012年4月)
▶石巻市(いしのまきし):宮城県北東部、仙台から東へ約50kmに位置する宮城県第2の都市。2005年に石巻地域1市6町が合併し、仙台平野から三陸海岸までの広域に多様な地理的特性を持つ。工業・水産業が盛ん。亀山紘市長(かめやまひろし 2009年4月〜)。人口:162,822人、 60,928世帯(2012年3月11日現在)
▶東日本大震災被害:震度6強/最大浸水高21.5m/津波到達時刻 午後3時40分頃(2011年3月11日時点)。死者3,230人、行方不明者499人(2012年5月末現在)
石巻地方
▶石巻地方(いしのまきちほう):宮城県北東部沿岸の東松島市、石巻市、牡鹿郡女川町の2市1町。今作の撮影対象地域。
門脇・南浜地区(かどのわき・みなみはま)
- 日和山を背にした門小と門脇・南浜の地域 (宮城県石巻市 2011年7月) Photo:青池組
- 日和山中腹から門脇・南浜と海を望む (宮城県石巻市 2011年7月)
▶門脇町・南浜町地区(かどのわきちょう・みなみはまちょう)/南浜・門脇:今作の撮影対象地域である門脇小学校学区。門脇町2〜5丁目、南浜町1〜4丁目、ほかに日和が丘、南光町、雲雀野町などの一部を含む地区。太平洋に面し日和山を背にした、旧北上川と日本製紙石巻工場に挟まれた一帯地域。
▶門脇町、南浜町には午後3時40分〜50分頃に津波が到達し、全域にわたり6.7mの高さまで浸水した。直後に大規模な市街地火災が発生し、鎮火するまで12日間を要し5万6千100平方メートルが延焼した。門小校庭に停めていた避難者の車が浸水で出火したことが原因で、燃える車両が流されながら建物や滞留した瓦礫へと延焼していった(『2011年消防白書』消防庁)。地域住民は高台の日和山へと避難した。
▶一帯は地盤が沈下し、所々ゼロメートル地帯が出現している。海に面した地域は震災廃棄物の一次仮置き場となっており、山のように瓦礫が積まれている。下水道が損壊したままの所や雨や満潮時などに冠水する場所もあり、衛生環境的には不安定なままだ。
▶地域は建築制限区域に指定され、新たな建築物の建設はできなかった。2011年9月、法に基づく被災市街地復興推進地域「石巻中部地区被災市街地復興推進地域」(約226.2ha)に指定された。これにより区画整理などの事業が開始されるまでの間、移転除去可能な仮設建築の建設や居住が可能となっている。
▶南浜町は作家 辺見庸の出身地で、高校までをここで過ごしていた。
石巻市立門脇小学校(かどのわきしょうがっこう)
- 津波と火災によって被災した門脇小学校 (宮城県石巻市 2011年7月)
- 被災した門脇小学校の教室 (宮城県石巻市 2011年7月)
▶門脇小学校(かどのわきしょうがっこう):門脇町四丁目。今作の撮影対象場所。明治6年創立。通称「門小(かどしょう)」、児童の愛称は「門小っ子」。青池組の撮影拠点である。(全校児童216名、教職員21名。1年〜3年、5年は1学級。4年、6年は2学級。2011年8月22日時点)。
▶地震で児童・教職員は高台へ避難し全員無事だったが、校舎は津波と火災で被災し全壊・全焼。下校していた7名の児童が亡くなった。
▶震災後は近隣の門脇中学校を間借りし授業を再開している。2011年末のNHK紅白歌合戦では、長渕剛が被災した校庭から生中継で歌唱した。卒業生には、辺見庸(作家)がいる。
▶2012年3月発表の市教委の学校再編計画では門小は先送りとなり、2013年度中の方針決定となった。このため学校存続や被災校舎の今後については、依然として不透明なままである。(2012年4月現在)
門小ガッツスポーツ少年団(かどしょうがっつ)
- 門小ガッツ (宮城県石巻市 2011年10月) Photo:青池組
▶門小ガッツスポーツ少年団(かどしょうがっつ):通称「門小ガッツ」。門脇小学校の軟式少年野球クラブ。全国からの支援で用具なども整え、被災した門小の校庭などでも練習を行っている。
石巻市立門脇中学校(かどのわきちゅうがっこう)
- 門脇小学校が間借りしている門脇中学校 (宮城県石巻市 2011年7月)
▶門脇中学校(かどのわきちゅうがっこう):泉町四丁目。今作の撮影対象場所。昭和22年創立。通称「門中(かどちゅう)」。門脇小学校学区の児童が進学する公立中学校。
▶震災でも日和山の高台一画に位置する校舎自体には、大きな被害はなかった。体育館や武道館は避難所となり、2011年10月まで多くの地域住民が避難生活を送っていた。門小が3階フロア全てを間借りし授業を再開している。門脇・南浜地域は居住ができないため市内各地の仮設住宅や新居で避難生活を送っている児童・生徒の家族も多く、登下校時に自家用車で送迎をする家庭も多い。
▶2011年6月、門中を慰問した陸上ハンマー投げの室伏広治選手は、その後8月に参加した世界陸上で金メダルを獲得。会場で門中生徒から贈られたメッセージ入りの国旗を掲げた姿がテレビで中継された。
▶2011年9月の運動会は門中・門小の合同開催となった。青池組は空き教室の一角を撮影準備室として借りている。
[サイト]
日本製紙株式会社石巻工場(にっぽんせいし)
- 日本製紙株式会社石巻工場 (宮城県石巻市 2012年4月)
- 日本製紙株式会社石巻工場 (宮城県石巻市 2012年2月)
▶日本製紙(にっぽんせいし):南光町2-2-1。門脇・南浜地区の一画を占める製紙工場は1940年、東北振興パルプ石巻工場として操業開始した。1949年、東北パルプに社名変更。1968年、十條製紙に吸収合併。1993年、山陽国策パルプとの合併で日本製紙となった。通称「せいし」「にほんせいし」。住民によっては「十條(じゅうじょう)」や、年配の方の中には「東北パルプ」と呼ぶ人もおり、地域住民の世代によってその一番なじみのあることばで記憶されている存在だ。
▶震災による津波で甚大に被災した。当時同工場で働いていた約1300人の従業員は全員無事だったが、非番だった約120人が犠牲となる。長期間の操業全停止を余儀なくされたが、2011年9月16日、8号抄紙機が再稼働したのを皮切りに順次操業を再開している。
▶高台にある南光町二丁目には公園や施設を含む社宅群があり、門小児童の中には同工場と関連する家庭も多い。
[サイト]
日和山(ひよりやま)
- 日和山から見た門小校庭 (宮城県石巻市 2012年4月)
▶日和山(ひよりやま):門脇・南浜地区に隣接する高さ約56メートルの丘陵地。市内中心部の旧北上川河口に位置し、JR石巻駅から徒歩20〜30分ほどの場所にある。高台には日和山公園や鹿島御児神社がある。
▶「日和山」とは元々は江戸時代に千石船等の船員が天候や波浪など海の日和を確認した場所という意で、かつて商港の拠点となった全国の湊にも多く存在した。石巻は江戸時代に奥州の一大外港として発展し、この場所が日和山として利用された。〔他には名取(宮城)や酒田(山形)なども知られている〕
- 門小児童・教職員は、公園のこの場所に避難した。 (宮城県石巻市 2012年2月)
- 日和山公園にある松尾芭蕉と曾良の像。地震でズレたままだ。(宮城県石巻市 2012年4月)
▶日和山公園:地域内にある公園。園内からは、眼下に旧北上川や太平洋、被災した門脇・南浜地区を一望できる。桜や市花であるツツジの名所として知られ、園内には10品種450株が植えられている。かつては松尾芭蕉も奥の細道の道中に訪れた。
▶地震発生後には多くの地域住民の一次避難場所ともなり、門小児童・教職員も地震の後、校舎裏の階段を上がり日和山へと避難をした。
▶普段から多くの地域住民や観光客が訪れる憩いの場で、石巻を代表する場所となっている。震災後には石巻を訪れる多くの人がここに立ち寄り、被災地を望む祈りの場ともなった。
鹿島御児神社(かしまみこじんじゃ)
- 日和山公園にある鹿島御児神社の鳥居 (宮城県石巻市 2011年7月)
- 鹿島御児神社 (宮城県石巻市 2012年4月)
▶鹿島御児神社(かしまみこじんじゃ):日和山公園に隣接する由緒ある神社。創建の由来は明かではないが、延喜式神名帳に記された式内社であると言われる。戦国時代にはこの地に鎮座していたという。
[サイト]
石巻市立女子高等学校(しりつじょしこうこう)
- 石巻市立女子高等学校 (宮城県石巻市 2011年7月)
▶市立女子高等学校(しりつじょしこうこう):日和が丘二丁目。通称「市女高(しじょこう)」。日和山の中腹にあり、海側の眼下にちょうど門小が位置する女子高校。地震後には多くの住民が避難し、門小児童・教職員も当初は日和山公園から市女高に避難をした。しかしすでに避難者で溢れていたため、さらに石高へと移動した。
▶市女高自体は大きく被災はしなかったものの、津波で被災した石巻市立女子商業高等学校(通称:市女商{しじょしょう})が移転し、敷地内に建てられた仮設校舎で間借り授業を行っている。(2012年現在)
▶2012年8月、震災前からの策定方針であった市女高と市女商の統合案が正式に発表され、学校名は「石巻市立桜坂高等学校」となることが決まった。現在の市女高を増改築して整備し、宮城県内唯一の公立女子高となって2015年4月に開校する。公募された新校名は、市女高が桜の名所である日和山公園のある日和が丘地区に立地することから選定されたという。
[サイト]
宮城県石巻高等学校(いしのまきこうこう)
- 石巻高等学校 (宮城県石巻市 2012年4月)
▶石巻高等学校(いしのまきこうこう):大手町3丁目。通称「石高(せきこう)」。日和山の中腹にある。地震後には多くの住民の避難所となり、門小児童・教職員も当日夜はここに避難し一夜を明かした。主な卒業生に、安住淳(衆議院議員、財務大臣)、中村雅俊(俳優)、辺見庸(作家)、亀山紘(現石巻市長)などがいる。
[サイト]
北上川(きたかみがわ)
▶北上川(きたかみがわ):岩手県岩手町の水源地から宮城県石巻市の太平洋へと注ぐ、全長249km(全国第5位)、流域面積は全国第4位の河川。
▶岩手山の麓から開運橋が掛かる盛岡の中心を抜け、花巻では宮澤賢治が名付けたイギリス海岸が出現し、世界遺産の平泉を流れて宮城県登米市に入る。
- 岩手県盛岡市内を流れる北上川。源流部の岩手県最高峰の岩手山を望む (岩手県盛岡市)
- 岩手県花巻市内、宮沢賢治が名付けたイギリス海岸を流れる北上川 (岩手県花巻市)
▶宮城県・登米では、明治時代の河川改修により開削された新河道付け替えにより二河川に分水する。本流の北上川(新北上川)は石巻の山間部を抜けて追波湾へと流れていき、南流する旧北上川は市街地の石巻湾へと流れ、それぞれが太平洋へと注いでいく。
▶北上川河口域10kmは茅葺き屋根などに用いるヨシ原が広がり、全国的にも知られる風景となっている。水産・農林資源の豊かな河川でシロサケ、サクラマスなども遡上する。東日本大震災では津波が上流48.88km(登米市大泉)地点までの遡上したことが観測された。
旧北上川(きゅうきたかみがわ)
- 太平洋へと注ぐ、日和山公園から望む旧北上川の河口。(宮城県石巻市 2012年4月)
- 日和山公園から望む、旧北上川の河口にある中瀬。(宮城県石巻市 2011年7月)
▶旧北上川(きゅうきたかみがわ):宮城県登米市から分流したおよそ60kmの新河道が石巻湾へと注いでおり、岩手の水源地からを含むと全長258kmもの距離になる。
- 日和山公園の川村孫兵衛の像。山の上から旧北上川を指している。(宮城県石巻市 2011年7月)
▶1620年代、陸奥仙台藩初代藩主の伊達政宗の命により毛利家浪人だった川村孫兵衛重吉により、北上川の河川改修工事が行われた。この時に石巻湾へと注ぐ南流ルートの新河道が整えられ旧北上川となった。河口に開港した石巻湊は、仙台藩が年貢米として江戸へと送る米の廻船運用拠点となり、奥州の一大外港として大きく栄えた。そうした船の日和を船員が確認する場所として使われた丘陵部が「日和山」となった。明治に入り東北本線が開通すると、以降石巻港は商港としてはさびれていき、替わって漁港として発展していくこととなる。
- 旧北上川の川面を漂う「川開き祭り」の灯籠流し。(宮城県石巻市 2011年7月) Photo:青池組
▶毎年8月初めには、石巻の治水工事を指揮した川村孫兵衛重吉への報恩感謝の夏祭りとして「川開き祭り」が開催されている。
都市基盤復興計画に関する住民との意見交換会
- 都市基盤復興計画に関する住民との意見交換会 (宮城県石巻市 2011年7月)
▶都市基盤復興計画に関する住民との意見交換会:石巻市(石巻市復興対策室、石巻市建設部)主催で2011年7月14日〜24日に開催された復興まちづくりに関する行政と住民の最初の話し合いの場。通称「意見交換会」。
▶主に津波で被災して「建築制限区域」が設定された町会を対象。内容は、国や県の予算や復興指針、津波防災の科学的な提言が未確定だったため石巻市の「震災復興基本計画案」もまだ策定中で、具体案ではなくイメージ説明にとどまった。地区住民の避難先を行政も把握しきれてなく周知期間や手法が不十分だった事もあり、住民の集まりは少なかった。