Interview : Part 1
石巻で続く撮影が5ヶ月目に入ろうとしていた2011年10月末、青池憲司監督は完成したばかりの予告篇『わたしはここにいます〜石巻・門脇小学校・夏』の上映と撮影経過報告のために、都内に上京していました。
私が石巻の青池組を訪問した7月からは、夏休みを挟んで3ヶ月が経っています。その間、被災地や撮影現場ではどのような動きがあったのか。上映会が始まるまでの短い時間の雑談でしたが、青池監督に話を伺いました。
短い夏休み、それぞれの動き
——夏休みの間、学校は休みでしたが、青池組はどのような動きをしていたのでしょうか?
東京に戻っていた時期が1週間くらいある。また神戸に行ったりもしていた。
——神戸に行ったのは、8月に野田北部からの支援が決まった撮影車両「のだきた号」の貸与の件ですね。
7月の半ばくらいに決まって、8月6日に神戸・野田北部[*]に「のだきた号」を受け取りに行った。のだきた号は、大きくてしっかりしていて快適だよ。
*)野田北部地区
▶「記憶のための連作『野田北部・鷹取の人びと』」第1部〜第14部(青池憲司監督作品、1995〜1999年)の舞台となった阪神・淡路大震災の被災地。兵庫県神戸市長田区の西端でJR鷹取駅南東側一帯地域。震災で地区は全焼、全半壊、死者41人の被害。震災復興土地区画整理事業地区に指定された。「のだきた号」を無償貸与してくれたのは、阪神・淡路大震災の被災者であり前述の作品の登場人物でもあった同地区まちづくり関係者である [石巻撮影報告]。
——短い夏休みが明けて、子どもたちに変化は見られました?
夏休みというのは面白くて、ちょとたくましくなったような感じだ。やはり変化はあった。
——子どもたちは、休み中どのように過ごしていたんでしょうかね。
結構、石巻にいるのではなくて、外に行きたがる子がたくさんいたようだ。やはり違う環境、つまり被災地じゃない日常の環境に子どもが行きたがるというのが結構あった。
2学期になってから門中の校庭は、もう駐車場ではなくなった。子どもの送迎をする親の車は学校の周辺で待機していて、校庭はもう授業で使っている。石巻の避難所は10月11日で閉鎖になった。体育館も学校の学芸会から使い始めている。
——学校は、精力的に行事をこなしていますね。
学校は4月に年間スケジュールが決まっているから、そこから行事をやったり止めたりはできない。
まちの変化
——まちの動きに変化はありましたか?
変化はいっぱいあるが、スピードがない。何かが決して停滞しているわけではないが、遅々としたスピードで成果みたいなものはない。他の場所と比べて、石巻は進み方の速度が特に遅いんじゃないか。やはり行政がなかなか決断を下せないという。行政の動きなんかを見ていても、東松島なんていうところは結構進んでいるようなことを見ると、行政の対応の仕方などでは、石巻はちょっと遅いと感じる。
いわゆる平成の大合併[*]で農村部をかなり取り込んだ。あれは今足腰を重くしている。あの合併がなく、農村部のほうも合併をしていなければ、もっと早くできたのかも。それがそうではなくなっているというのが大きい。
3月(撮影終了予定の2012年)までいても、神戸の2、3ヶ月目といった感じじゃないか? という印象だ。
*)平成の大合併
▶2005年に石巻地域1市6町が合併した石巻市は、仙台平野から三陸海岸までの広域に多様な地理的特性を持つ地方公共団体となった。 [石巻市][石巻地域合併協議会]。
予告篇上映会の反応
——10月に、予告篇『わたしはここにいます〜石巻・門脇小学校・夏』(29分)が完成しました。その上映会がすでに石巻市内や門小をはじめ、被災地の内外の各所で開かれていますが、どのような反応がありましたか。
場所による違いはあまりないね。ただ石巻市内はみんな被災しているから、被災者から言わせると「こんな程度のもんじゃないよ」というのが当然ある。
「何で津波の恐ろしい映像を入れないんだ」とかね。「撮っていないのは分かっているけど、どこかから借りてでも使うべきじゃないか」とか言う人もいる。100人が体験すれば100人の津波に対する思いは違うから。それはもう各自の問題で、例えばその時の個人の体験で言えば、どんな映像だって追いつかない。
一方でこちらは、「被災以降の日々をどれだけ追えるか」というものを考えている。その中で、どういう風なテーマに絞り込んで追えるかということだから。
——門小の先生方や保護者の反応は?
イメージはつかんで貰えたと思う。先生方はあまり本音を言わないからね(苦笑)、でも悪くはなかったという感じだ。
子どもはストレートで良いよ、「全然面白くない」とか言う(笑)。ただやはり、子どもも面白がるようなものにしないといけないわけで、そういう意味ではいろいろ参考になっている。子どもはわりかし大人しく見てる。低学年などは自分や友達が映っていると、はやしたてたりもしていた。
——この作品は予告篇とはいえ30分もあり長めで、時間的には短篇作品とも言えますよね。
これは全くの予告篇であり、作品というような意識は全くない。予告篇は大体こういうものかということを見せるものだ。
ただ観る人はどうしても作品として観るから、当然いろいろと意見を言いたくなる部分もあるだろう。特に30分だし短篇として観られるのは、それはそれでどうしようもないのだけれど。
だからそういう意味ではリスクはあるわけだ。「あぁ、この程度のものだったらカンパするの止そう」とか、「これだったら面白そうだからカンパしよう」とかね(苦笑)。
当然、良い意見も批判的な意見もある。むしろ今はいろいろな、こういうところが足りないんじゃないかとか、ああいう所が欲しいとかいうような意見を貰ったほうが良い。意見の中には、「そういうのも撮っているんだけれど、今回の予告篇では使っていない」というものもある。
《続く》
#文中に登場する名称・データ等は、初出当時の情況に基づいています。