阪神・淡路大震災で失われたモノ、残されたモノ、生まれたモノ…そんな記憶を記録します。

青池 憲司 監督作品 映画『宮城からの報告—こども・学校・地域』製作委員会

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コラム・撮影プロローグ

震災小片雑記・拾貳(110516)

text & photos by 青池憲司

2011.5.16  up

小片28

4月17日のつづき。女川町からいったん石巻市内にもどり(海岸線の398号線は通行不能)、国道45号線を行き旧北上川を渡る。その辺りのコンビニでお茶とおにぎりを買い昼めし。相野谷で北上川を渡り石巻市北上町をめざす。いたるところで道路は寸断され復旧工事が行われている。この辺をよく走っているSSさんも困惑気味である。北上川に沿いながら河口の北上町・橋浦地区、吉浜地区とたどり、さらに白浜地区、相川地区まで海岸線を行く。河口近くの水門が本体ごと押し流されていた。SSさんが「この水門が流されるなんて」と何度も繰り返す。北上総合支所も全壊である。このあたりの海岸線1m20cmほど沈下したとのこと。凄。

小片29

石巻市立相川小学校を見る。道路端に車を止めて学校方向へ歩いて行く。通学路のこのあたり、地域の住宅が建ち並んでいたはずだ。ひとりの男性が、いまはあとかたもない、自分の家屋敷の建っていた土地でスコップを振るっていた。SSさんが話しかけると、男性(漁師さんです)は、「家のまわりに地蔵さまが流されて横たわっていたので、元の場所にもどしておいた」と彼方を指差した。そこにはお地蔵さまが端然と座していらして、その顔が向いているのは津波にやられた小学校だった。

宮城県東松島市

まだ散乱状態の校庭に数人のこどもがいて、何してるのと訊くと、「べつに。なんか、ときどき、学校にきたくなる」といった意味のことばがボソリとかえってきた。津波は相川小学校の屋上まで達し、相川橋も、家も車も、海の近くの平地はすべて無くなってしまった。

宮城県東松島市

宮城県東松島市

小片30

この相川地区を5月10日に再訪した。先の漁師さんに会えればというきもちがあった。こどもたちは北上川河口寄りに約12km離れた橋浦小学校で、4月21日から新学期を迎えた。追波湾海岸の防波堤が復旧未然の難路をスクールバスで登下校する。わたしが走ったかぎりでも、波のうねりが恐怖となって迫ってくる地点が何か所かあった。漁師さんには残念ながら会えなかったが、しかしそこでは素晴らしい光景が待っていた。彼が、「ひとりでやるっちゃ」といってスコップを振るっていた敷地はきれいに整地され、花壇と菜園が作られてあった。

宮城県東松島市

宮城県東松島市

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◉初出誌
「阪神大震災ドキュメンタリーヴィデオコレクション─野田北部を記録する会WEBサイト」サイト内
「連載コラム『眼の記憶11』第16回」2011年5月18日掲載を再録。
#文中に登場する名称・データ等は、初出当時の情況に基づいています。

青池憲司

ドキュメンタリー映画監督。震災後、親交のあった長田区の野田北部・鷹取地区に入る。"野田北部を記録する会"を組織し5年間に渡りまちと住民の再生の日々を映像で記録。
「記憶のための連作『野田北部・鷹取の人びと』全14部」(1995年〜99年,山形国際ドキュメンタリー映画祭正式招待作品)を発表、国内外で上映。2002年「日本建築学会文化賞」受賞。

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