阪神・淡路大震災で失われたモノ、残されたモノ、生まれたモノ…そんな記憶を記録します。

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◉しんのこレポート

2000年 鳥取西部地震における
ボランティア活動報告(2)〜10/15〜

◉ 2001年1月17日

Text & Photos by 植草康浩

初出『震災が残したもの 6』

2014.1.22  up
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鳥取県西部地震(鳥取県日野町 2000年10月)
ボランティアの本部事務所には、多くのニーズが寄せられる。(鳥取県日野町 2000年10月)

10月15日

5時半起床。顔を洗ってからすぐに事務所へ向かい、朝の炊き出しの準備に参加。避難所への弁当配給は市販の物であるが、なぜか朝から天ぷらや揚物が多く、歯のない老人にはかなり酷な内容。阪神・淡路大震災の時と変わらないと感ずる。元気村に関わっている大工ボランティアが温かい汁を作って配っており大変喜ばれた。被災者の方々も各家庭からもお鍋を持ってやってくるので、直接顔が見られるうえに、各家庭の被災状況等がある程度この時間に把握出来る大きなメリットがある。ここで当日のニーズの吸い上げもかなり行われた。

7時半頃から日野町下榎地区の自治会の人々が集合してきた。今日は月曜日だが、みな仕事を休んだようだ。やはりこの地区の人々の、普段からの墓地との強い生活密着性を感じる。8時から当日のボランティアが集まり始める。ボランティアコーディネートの仕事をした後、役場の方と一緒に軽トラックに食べ物を積んで、墓地で働いている人々に声をかけながら、パンやジュースを渡して様子を見て回る。移動の途中で色々と話を伺う。こんな事になってから、家の片付けが全く出来ないようで、本当に不眠不休のようだった。こういう時、役場の人々はいつも一番気の毒である。同じ被災者であるにもかかわらず、自分の事は放っておいて避難民にサービスを提供しなければならず、また文句を聞いて謝らなければいけない。震災の時と全く同じ状況がここでも起こっていた。

昼前に東本願寺の僧侶の方々がやってきた。すでに青年会議所や建築関係のボランティアが墓地へ向かっていたので、一緒に行ってもらう事にする。残った方々にはこの地域をいくつかのエリアに分けて、個別訪問に入ってもらった。

玻璃

昨日の夕方から事務所の周辺をうろうろしては遠くからこちらをうかがっている女の子がいる。気になっていたので周りの人々に聞くと、みんなどこの子か知らないという。声をかけると、遊んでくれると思ったのか、飛びついてきた。6歳の女の子で玻璃という。かなり寂しいようで息もつかず話をしている。家に行くと彼女のお母さんが出てきて話を伺う事が出来た。玻璃のお母さんは奈良で看護婦をしているそうだ。

今回の地震で家が倒れて、急きょ何日か休みをもらって娘だけを連れて実家へ片付けに来た。散乱した瓦礫は莫大な量でとてもさばききれず、連れてきた子供の面倒を見る事が全く出来ない。疲れていて、子供が甘えたい盛りなのはわかってはいるが、まとわりつかれるとつい怒ってしまう。お母さんはかなり辛そうな顔をしていた。

仕事の邪魔にならない範囲で遊んでやってくれと頼まれたので、引き受ける事にした。玻璃は僕の側を片時も離れようとせず、僕の行く所にはどこまででも付いてくる。食事の配給があったので炊き出しの汁と弁当を一緒に食べさせてから、近所を一緒に散歩しながら色々と話を聞いた。ここでは遊んでもらえない事を良く自覚していたが、やはり寂しいようだ。僕なら遊んでくれると思って、僕が来た時から周りにいたらしいが、全く気がつかなかった。午後は別の人に面倒を見てもらう事にして、夕方からまた散歩をする約束をした。

外出出来ない老人

倒壊家屋や倒壊の恐れのある家屋の屋根の修理、瓦落とし、ブルーシート貼り、崩れた石垣の撤去、瓦礫撤去、墓石起こし、土砂崩れ箇所のブルーシート貼りや砂利運びなどを鳶大工のボランティアの方と共にこなした後、事務所に戻った。

事務所に戻った後、あるお宅に伺った。老夫婦二人暮らしのお宅だ。玄関から声をかけると、奥さんがやつれた様子で出てこられた。2階は地震でぐちゃぐちゃになったが、息子さんが倒れそうな危ない物だけ他の部屋に移してくれたそうで、今はそこに寝ているとの事。本人も少しずつ片付けようとはしているが、リウマチがひどく、なかなかはかどらないという。毎晩余震があるのでぐっすり眠れず、かなり疲れているようだった。

着付けが趣味で、三面鏡の大きな鏡台があったらしい。しかし一番大きな正面の鏡が今度の地震で粉々になってしまった。これで一気に力が抜けて、何もする気が起きなくなってしまったという。もともとリウマチで遠出も出来ないので近所の方々ともあまり懇意にはしていない。足が痛いのを我慢して作った庭の花も地震でぐしゃぐしゃになってしまった。やっと植木鉢を起こした所だそうで、話しながら泣いている。長い間飼っている老犬がいるが、毎晩余震の度に震えて布団に飛び込んでくるようで、心配しているそうだ。少しでも家の中から彼女を外へ連れ出したほうがいいと思い、炊き出しに誘ってみた。

自衛隊風呂

自衛隊の管理する大きな野営テントのお風呂に入った。俗に「紅葉湯」と言われている。ここにいた自衛隊の方はほとんど、阪神・淡路大震災時も被害の大きかった場所に僕らと同じように救援活動に入っていた。そういうわけで、当時の事や今回の事でもお互いに話が弾む。責任者の方と2人で一緒に話しながら風呂に入った。広い湯船につかりながら米子や境港の被害の話を聞く。米子のほうはほぼハード面でのケアは終わって、やっと自衛隊が日野町のほうにも流れてきているそうだ。

米子や境港ばかりがマスコミにクローズアップされてしまったので、「結局、大した事がない」というイメージが全国に広がってしまって、こちらに救援に入るのが遅れたようだ。これも阪神・淡路大震災の時と同じだなと思った。危うく僕もマスコミの情報のみを信じる所だった。

事務所に帰って、元気村のスタッフらと4人で色々な話を朝までした。こういった時の元気村のスタンスは、極めて早い段階でのケアをする事のようだ。震災の時もそうだったが、それ以上の事をしようと思ったらとても長い活動になってしまうのは目に見えているし、外から救援にやってきた人間にはそうそう出来るものではない。最も難しいのは戻っていくタイミングを見極める事である。

朝までに有感地震6回。やはり毎回山鳴りがする。昨日より大きい。

[続く]

◉初出誌
『震災が残したもの 6』(A-yan Tokyo、2001年)
#文中に登場する名称・データ等は、初出当時の情況に基づいています。

◉リンク
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Text  植草康浩

▷A-yan Tokyo。阪神・淡路大震災を皮切りに各地の災害被災地でボランティア活動に参加。
この鳥取県西部地震の発生当時は大阪在住。

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