阪神・淡路大震災で失われたモノ、残されたモノ、生まれたモノ…そんな記憶を記録します。

青池 憲司 監督作品 映画『宮城からの報告—こども・学校・地域』製作委員会

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青池憲司監督インタビュー

Interview : Part 2

"言葉を見る"——証言集 学校篇とは?

証言集学校篇『3月11日を生きて〜石巻・門脇小・人びと・ことば〜』上映会/映画製作委員会東京事務局(東京都三鷹市・市民協働センター 2012年2月18日)
証言集学校篇『3月11日を生きて〜石巻・門脇小・人びと・ことば〜』上映会
映画製作委員会東京事務局主催 (東京都三鷹市・市民協働センター 2012年2月18日)

——証言集学校篇『3月11日を生きて』について伺います。これは、ほぼ人々のインタビューによる証言によって構成されている作品です。これらの証言を聞いていると、自然と頭の中で映像が再生されるような感覚を覚えました。その感覚は本を読んでいるのとも違いますし、画があるにも関わらずラジオドラマを聴いているかのようでした。

それは、映像には喋っている人たちの表情や息づかいや言葉遣いなどがあるからね。活字になった場合は、全部一緒になってしまうから。

——所々で門小や避難した日和山といった現場の実景も映しだされます。こうして知らない場所でも具体的に建物や部屋や道の形を知っていくと、頭の中でテレビで見た津波の映像が勝手に脳内再生されて合成され、勝手に石巻の人たちの行動を追体験したかのような感覚を覚えました。そういう意味では、震災映画なのに津波や被災直後の悲惨な映像が使われていないということは、本質的な問題にはならないのだなと納得しました。

観た人はみんな、だいたい今言ったようなことを言ってくれる。そこは上手くいったんだろうなと思っている。

——この作品を観たある方が、「これは言葉を見る映画ですね」との感想を寄せてくれたそうですね。まさにその通りで、これは良いキャッチフレーズだなと思いました。

この作品が完成した最初にやった東京・三鷹の上映会だった。会場の中ではなくて終わってから廊下に立っていたら、一人の中高年の男性がやって来て、その一言を言って帰っていった。

——作品を観て、作り手にとにかくこの一言だけでも伝えたかったのでしょうね。

旧北上川の中瀬に岡田劇場[*]っていうのがあるでしょう。あれも今若いオーナーになっていたんだけれど、先代のオーナーがまだ元気だ。先代といっても俺とあまり変わらないくらいの年代なんだろうけど。

その彼がたまたま俺が居なかった、石巻の地元でやった上映会に来た。そして、「俺は仕事柄、劇映画ばっかり観ているけど、何でこんなストーリーもない、人もそんなに動かない、人が座って喋っているだけの映画が、1時間37分も観客を引っ張るんだ」と、そういう感想を言って帰ったという(笑)。これはある意味じゃ嬉しいことだ。劇映画を自分の人生賭けて小屋で興行してきた人の言葉だから。

だからそれはやっぱり、語る人の一人一人の言葉の中にドラマがあるということだ。この映画全体としては、ストーリーも何もあるわけではないけれども。

*)石巻岡田劇場
▶宮城県石巻市中瀬3番2号。旧北上川河口の中洲・中瀬に位置し、160年もの歴史のあった木造、280席の芝居小屋・映画館。戦後、芝居小屋として再建され、1948年に映画館として改築され岡田劇場となった。東日本大震災の津波で被災して全壊、土台を残して流失した。 [オカダプランニング]。

——編集も絶妙でした。インタビューだけの映画なのに、1時間半余りの長い時間を観客を飽きさせず最後まで惹き付けます。一度列車に乗せたら、終点まで乗客を降ろさせないようなものを感じました。正直、観る前に「インタビューだけの映画です」と言われても、それだけだとあまり観る気が起きないですが(苦笑)。

そうだと思う(苦笑)。だから売り方がまだ難しい部分もあり、全てが上手にはいっていない。

——当初、この作品の紹介コピーで「50人超の証言」とうたってありましたけれど、本当に50人も登場していましたか?

数えてみて欲しい。俺は適当に言ってみた(苦笑)。でも実際に100人くらいにはインタビューしたのは確かだよ。

——その100人に取材した中で今回の証言集に登場したのが50人くらいということですか。映画を観た後の印象では、内容の密度がとても濃かったためなのか、そんなに多く感じられず10人くらいに思えたんです。だから実際にはどうなのかなと。

その辺は、今度正確に数えておかないといけないね(苦笑)[*]

*)証言集・学校篇に登場した人数
▶その後、インタビューで登場した方々の人数を製作でカウントしたところ「37名」であった。「50人」は、作品発表当時の2月時点でのコピーで、現在ではカウントした数字を用いている。

証言集・地域篇の構想などは?

石巻・青池組によるドキュメンタリー映画の撮影風景 (宮城県石巻市・南浜町/門脇地区 2011年7月22日)
門脇町の高台にあるテニスクラブでの撮影。
津波から避難した当時の様子をインタビュー。(宮城県石巻市 2011年7月22日)

——証言集学校篇の上映会の際、挨拶の中で「証言集だけで一本作ろうとしたら3時間くらいになってしまうので、まず学校篇だけでまとめた」という話をされ、次は"地域篇"を作りたいという構想をされていました。現在もその流れに変わりはないですか?

地域篇を作る構想については、今は少しわからない状況になっている。ただ『地域篇』という一つの作品にはしなくとも、今までインタビューした地域の人たちの意見は何らかの形でまとめたいと思っている。だから従前から言われたような『証言集地域篇』というふうな形でまとめるかどうかは、今のところちょっと保留状態になっている。

先に本篇作品である「学校の1年」の作品を作ってからということになるだろうし、「学校の1年」の中に今想定しているよりは地域の話が入ってくるかもしれないという感じだ。

本篇のほうは5月から編集を初めて、7月末完成予定。4月末に東京に帰ったら、その作業ということになっている。

編集は生き物を扱うようなもの

平成24年度
平成24年度 門脇小学校入学式(宮城県石巻市・門脇中学校体育館 2012年4月10日)
[クリックで拡大]

——今の段階で、本篇作の構成・編集に関して、全体の具体的なイメージは固まりつつあるのでしょうか?

いやいや、まだそういうことを考える余裕はない(苦笑)。まだ今月いっぱいまで行う撮影をどうするかっていうことで頭がいっぱいだ。

——例えば今日撮影していたような実景カットや予定を立てていたフェリーからのカットなどは、具体的に作品の中でこう使おうとイメージしたものなのか、それとも取りあえずは押さえておこうというものなのか。

いやいや、それはもちろんイメージがある。例えば今日の撮影のカットや北上川や太平洋の実景は、学校の授業と関連させた映像として使うために撮ろうとしているわけだ。

——本篇全体としての具体的イメージはまだ考える余裕がない状態だけれど、部分部分のパーツを撮影する際にはイメージを持って撮影しているということですか?

そうではなくて、撮っている時のイメージと編集している時のイメージは、おのずと変わってくるわけだ。撮影中はやっぱり最終的にはこんな風にまとめたいと思っているから、それに関わるものはやっぱり全部撮っておきたい。だからといって撮影した映像を全部使うわけではないが。

編集というのは、映像と映像を組み合わせていくものだから、例えば編集をしていて一つの話がA、B、Cという構成で成立するものだとすれば、その中でA、B、Cのどれか一つでも撮り落として欠けていたら、その話は全て使えないということになってしまう。

それは後から取り返すことができないわけだ。だから今、撮影現場にいるときには考えられるものは全部撮っておこうということになる。どれが最終的に有機的に組み合わされるかということは、もちろんある程度の予測はして編集現場に入るわけだけれど、編集の現場に入って作業が始まってみないとまだ分からない。

そういう意味では、編集は生き物を”さばく”ようなものだ。

《了》


2012年4月9日 石巻市中里 青池組宿舎・監督部屋にて
聞き手・構成/kin(震災発)

#文中に登場する名称・データ等は、初出当時の情況に基づいています。