阪神・淡路大震災で失われたモノ、残されたモノ、生まれたモノ…そんな記憶を記録します。

青池 憲司 監督作品 映画『宮城からの報告—こども・学校・地域』製作委員会

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青池憲司監督インタビュー

Interview : Part 2

年末年始、そして1月17日の過ごし方

——今年は年越しも石巻ですか。

正月は関東の家に戻ってゆっくりしたいなと思っている。街は動いているけど、学校は冬休みで動きもないしね。

1月17日[*]は、今回はどうしようかと思っている。あまり石巻で大きな動きがなければ、神戸・長田に行こうと思っているけれど、どうなるのか。ただ野田北部に限って言えば、17日よりは暮れの餅つき大会のほうが面白いし、一般の住民さんとは大国公園で顔を合わせる機会が多い。逆に野田北部は17日は、早朝に有志が公園に2、30人集まって5時46分に祈るだけで後は何も特別なことはしないから。今年は東日本大震災以後の初めての神戸だから、何か連動した何かがあるのだろうけれど。

*)1月17日
▶1995年1月17日、兵庫県南部地震により阪神・淡路大震災が発生した日。2012年1月17日で震災17周年を迎えた。

青池監督は、阪神・淡路大震災以降の毎年1月17日を神戸市長田区・野田北部で過ごしており、作品の撮影後も住民との交流が続いている。結局このインタビュー後の2012年1月17日も野田北部へ赴いた。同日午後、野田北部地区を石巻市湊地区の被災者が復興視察ツアーで訪問。名物の"そばめし"でもてなし、被災者同士の交流が行われた。また同日は石巻市内でも、市民による阪神・淡路大震災の被災者追悼の催しが行われた。 [石巻撮影報告 1/19]。

神戸市長田区野田北部(神戸市長田区・野田北部 2012年1月17日)
長田名物のそばめしで、石巻の被災者を迎える (神戸市長田区・野田北部 2012年1月17日)

9月は予告篇の編集作業も

——この予告篇の編集作業は9月ということでしたが、その間も毎日撮影をされていました。日中は撮影で夜は編集モードなどという形だったのでしょうか。

そんなこともない。村本(さん=編集。東京で作業を行う)は、もう付き合い長いし信頼しているから。これだけ言ってやれば判るだろうなという構成案を送ってしまえば。

——村本さんは、何度か石巻に来られたりしたのですか。

いや村本は、まだ今回は一度も来ていない。今回はとくに予告篇だから、細かいことまで指示しなくてもいいやと。本編はそうはいかないけど。

——素人質問ですが、編集というのは撮影した映像を全部見るわけですか? 7月末の時点で30時間分くらいのテープがありました。それを全部見るのは、気の遠くなるような感じです(苦笑)。

もちろん見る。もう90時間分くらい(撮影済VTR)いってるんじゃない? だからあまりもう回さないようにしようと言っているんだけど(苦笑)。でも一度授業が始まってしまったら、やはり撮影も授業が終わるまでは撮らないとね。ここでいいっていう風にはいかないので、やっぱり40分、45分カメラを回してしまう。

門脇小学校の今後

門脇小学校
津波と火災によって被災した門脇小学校 (宮城県石巻市 2011年7月)

——門脇小学校の被災した建物は、今後どうなるかなどの話は出ているのですか?

いや、全く出ていない(2011年10月時点)。思惑はあると思うんだけれど。だけど校区がない(住民が住んでいない)から、学校はなくなるかもしれない。住民があの地区に戻って来られるかどうか。校区がなければあそこに学校がある意味がない。

今は児童は石巻市内にバラバラに住んでいて、親たちが車で送り迎えをしている。その子どもたちも親たちも、今住んでいる地域の校区の学校に通わせるよりは、多少不便でも門小に通わせたいというのがある。

来年の新入生も入ってくるのが決まっているし、そういう意味ではおいそれとはなくならない。しかし中長期的にみたら、校区がないでしょうというのは、学校をなくす大義名分になる。被災した学校の統廃合の問題は、ここに限らずあちこちで議論されている。その辺りについては教育委員会も神経質になっているかもしれない。

門脇町、南浜町は聖地に

石巻市役所
日和山中腹から門脇・南浜と海を望む (宮城県石巻市 2011年7月)

——被災した門脇小学校やその周辺の門脇町、南浜町というのは、報道の被災地映像の中でもよく登場しますよね。

あそこは被災地・石巻を訪れる中で、一種の"聖地"になりつつある。もう必ず誰しもが寄るし[*]、みんなあそこで記念写真を撮って帰る。

これがもし台湾だったら、屋台が出ている。集集大地震(1999年・台湾中部地震)の際、向こうを訪問した時にいろいろと被災地を案内をしてもらったけれど、グッズや食べ物の屋台がいっぱい出ていた。神戸に帰ったときに「神戸でもやったら?」と言ったんだけれど。だからそれを見たから、門脇でもやってもいいとも思った(苦笑)。

*)石巻市門脇町・南浜町への慰問者
▶ダライ・ラマ14世、フランスのフィヨン首相、フィリピンのアキノ大統領、スロバキアのガスパロビッチ大統領、長渕剛など。

重苦しい被災地の現実

門脇町の津波被災地にて(宮城県石巻市・門脇地区 2011年7月21日)
門脇町の津波被災地にて。(宮城県石巻市 2011年7月21日) [拡大]

今回の津波では、まだ行方不明者が随分いる。どこにどなたのご遺体があるか、まだ分からない。最近も日和山の麓の辺りで撮影をしている時に県警の動きがあって、門脇で遺体が発見された。

俺がカウンセリングを受けたい気分にときどきおちいる(このような環境に身を置いていると)。

——神戸のときは、そうした気分を解消できたのですか?

神戸は地震の揺れが一瞬で、その後は災害自体は終息したみたいになった。一月経てば、だいたい亡くなった方や行方不明になった方などの安否も掴めていた。そういうことも含めて、まだ自分たちが撮影していてる地面の下のどこかにいるかもしれないと思うと、重い気分におちいってしまう。

——いまだに遺体の発見があったというのは知りませんでした。そのようなリアルな現実は被災地の外、首都圏などにいるとなかなか伝わってこない感覚です。

石巻だけでも、まだ三百数十名の方が行方不明とされている[*]。みんな普通に考えれば亡くなっているわけで、あれだけ大捜索を行ったことを考えれば、その多くが海に持って行かれたのかなと思う。そんな場所で、いま我々は撮影を続けている。

*)石巻市の人的被害数
▶死者3,230人、行方不明者499人(2012年5月末現在 石巻市調べ)、門脇、南浜両町の死者320人(2012年2月24日 毎日新聞)、南浜町の死者/行方不明者430人(2012年6月11日 石巻日日新聞)。

《了》


2011年10月31日 東京都新宿区にて
聞き手・構成/kin(震災発)

#文中に登場する名称・データ等は、初出当時の情況に基づいています。